ヘブル 10:23 約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。
ラバンの下を出発したヤコブは、旅を続けて故郷に戻ってきました。しかし、故郷に入っていくときにヤコブは自身の抱える最大の問題と向き合う必要がありました。兄エサウの問題です。
そもそも故郷を追われたのは、兄を騙し怒りを買ったことがきっかけでした。「主に導かれて故郷に戻って来たはいいが、エサウにどう向き合えばいいのか?自分を殺そうとするほどに怒っていた兄だ。家族もろとも殺されてしまうかもしれない…。」ヤコブの悩みの中に落ち込んでいきます。
「神の約束はあるが、現実にあるカナンの壁は高い。」後にイスラエルの民がヨシュアと共に「約束の地」に戻る時に同じような構図の葛藤を経験しますが、信仰者の悩みはこの葛藤に凝縮されていると言っても言い過ぎでないかもしれません。
キリストを信じるなら新しく生きることが出来る…、と約束がありますが、現実には新しく生きることなど夢物語なのではないか?と、思うほどに以前と変わらない現実の罪深い自分の姿にぶつかります。
または、主イエスを信じなさい。あなたもあなたの家族も救われます。と約束がありますが、どれだけ待っても家族の救いが見えてこない、そのような葛藤もあります。
形こそ違えど、私たちの信仰の葛藤は「約束と現実の間」にあるのです。ヤコブはこの葛藤の中をどのような恵みによって導かれて行ったのかを学んで行きたいと思います。
マハナイム
創世記 32:1‐2 さて、ヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れた。ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言って、その場所の名をマハナイムと呼んだ。
故郷(約束の地)の入り口に辿り着いたヤコブは、唐突に「神の使いの陣営」を見るという経験をしました。ヤコブはその経験をした場所を「マハナイム」と呼びましたが、これは「二つの陣」という意味です。つまり、二つもの神の陣がヤコブと共にいるという霊的な現実を彼は目の当たりしたのです。
エサウ問題に頭を抱えて旅を続けてきたヤコブに、神様がまず行ったことは霊的な現実を見せるということでした。この先に待ち構える兄がどれだけ大きな脅威であっても、それを超えるような神の陣営が自分と共にあることを見せられたのです。
約束を阻む現実に立ち向かうときに神様が何よりもまず与えた下さる恵みは、インマヌエルの恵み(主が共におられる恵み)です。「主が共にいて下さる」という現実を思い起こさせ再確認させて下さるのです。
神様は目に見えないので私たちは神様が同伴されていることをついつい忘れてしまいます。そして、約束の前に立ちはだかる問題に一人で頭を抱えてしまいがちです。ですから、主はインマヌエルを覚えさせるのです。
神様は約束までの旅路を、責任を持って同伴される方であること、そして何よりも「約束を神様ご自身が私たちに果たして下さる」ことを思い起こさせてくださるのです。
また、ヤコブは「マハナイム:神の陣営」の臨在を見ましたが、「神様は私の味方である」という励ましを受け取ったとも思います。
ヤコブは兄を騙した自分の罪の故に故郷を追われました。その点において正義はヤコブにはありません。「兄を騙した自分が図々しく故郷に帰って祝福を相続出来るのか?神様が兄の味方をされることの方が当然なのではないか?…」約束を信じつつも、過去の罪がヤコブを不安にさせたことでしょう。
しかし、そんな自分に対する自信の無さから来る不安を吹き飛ばすように、神様はヤコブと共にあり、ヤコブに敵対する存在に向かって陣営を張って下さるのです。ヤコブにとってマハナイムは「わたしはあなた味方である」という主の強烈なメッセージを受け取る場所だったはずです。
私達も自分自身の罪深さを思い起こすとき、祝福の約束を耳にしつつも自信を失います。「いまだに罪深い私がそれを受け取る資格が私にはあるのか?」と悩みます。
しかし、神様は御自身を信じ、信仰によって十字架の恵みを受け取った「キリストにある者」の味方になって下さいます。
ローマ8:31‐34神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
私達もマナハイムの経験が必要なときがあります。みことばやその他の霊的な励ましを通して、主が私の味方でいて下さることをしっかりと確認していくからこそ、約束の前に立ちはだかる壁に勇敢に向かっていくことが出来るのです。
インマヌエルの重要性
約束を前にして多くの困難が立ちはだかる時、神様は何よりもまずヤコブにご自分が共におられるということを示されました。
「インマヌエル:主が共におられる」というメッセージはある方々には少し聞き飽きたが感があるかもしれません。しかし、インマヌエルをしっかりと見つめることほど、約束の地に辿り着くために重要なことはありません。
聖書全体から見れば、神様は御自身の民が約束へ向かって旅立つときにインマヌエルを示されます。例えば、イスラエルが出エジプトをする際には雲の柱、火の柱を持ってご自身が共におられることをイスラエルに示されました。新約では復活のイエス様が天に上る際に、これから世界宣教へ遣わされていく弟子たちに向かってインマヌエルを語られました。
また、何よりも、ヤコブは始めに故郷を追われラバンのもとに行く前にも、荒野の中で「主が共にいて下さっている」ことを経験させられていきました。
神様は人をご自身の約束に向かって送り出される際には、必ずと言っていいほどに「わたしが共にいる。」ということを示されているのです。それは言い換えれば、神様ご自身が、私たちが約束に向かって歩む旅路に「主が共におられる」という認識が必要不可欠だと考えておられるということです。
そもそも「神様がして下さる約束」とは、私たちが自分で成し遂げることが不可能なことばかりです。ダイエットさえろくに出来ない私が「罪の性質から生まれ変わって新しく生きる」ことや、宗教に興味など全くない家族がイエス様を信じたり・・・、神様の約束を現実に照らし合わせて見つめると「そんなの無理だ」って思うことばかりです。
しかし、思い出さなくてならないことは、「私たちがしたくても出来ないことを、神様が私たちの代わりに成し遂げてあげる。」と約束して下さっているのが「神の約束」なのです。
「神様の約束」の型であるアブラハムの出来事について聖書こう語ります。
ローマ4:19‐21彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。
また、絶対に救われること難しいと言われる人たちについてイエス様はこう語ります。
マタイ 19:26 イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」
わたしたちに出来ないことを、私たちに変わって神様が成し遂げて下さる。そのような恵みを神様は約束として私たちに与えて下さっているのです。
それならば、約束が果たされていく時に重要なのは、「私や、私の努力や行い」ではなく、「私と共におられる神」なのです。
そして、私達が「約束を果たす力のある神」を忘れて、どうして私たちは自分達で決して成し遂げるとの出来ない神の約束に向かっていくことが出来るでしょうか?そんなのは不可能なのです。
インマヌエル。主が共にいることを、何よりもまず見上げない限り、私たちは約祝福の束に近づくことすら出来ないのです。主が共におられるということを考える時、それを当たり前のように、聞きなれたメッセージとして軽んじてはいけないと思います。
特に約束に向かって進み始める時、私たちはまずインマヌエルの霊的現実から始めましょう。そこ信仰の目を挙げる時に、どんな困難があっても「主が私達に約束を果たされる」という信仰が生れてくるのです。
イマヌエルの恵み、マハナイムの恵みの中を進みましょう。
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