使徒6:15 最高法院で席に着いていた人々が、みなステパノに目を注ぐと、彼の顔は御使いの顔のように見えた。
アブラハム・リンカーンが大統領に当選し閣僚を選ぶ際に、閣僚候補の一人として推薦された人物がいたのですが、リンカーンは「顔が気に食わない」という理由で推薦人物を拒否しました。「大統領、顔で人を選ぶのはどうかと思います。」と周りに言われると、リンカーンはこう言ったそうです。
「人は40代になったなら、自分の顔に責任を持たなくてはならない。」
リンカーンが言わんとしていることは、「人は40年生きたならば、その人となりが表情や雰囲気に出るものであり、この人物は信頼に足る生き方をしてきたのか?そうでないのか?そういうモノがある程度は顔つきで判断されるものなのだ。」ということです。
私は20代の時にこの言葉を知りましたが、それ以来、この言葉が心の片隅に留まり続けて来ました。そして2023年現在、私は40歳を迎えています。ついに自分の顔に責任を持たなくてはならない歳になってしまいました。自分の顔が周りの人にどのように見えているのか気になります。
目鼻立ちには困難に立ち向かう強さや気品がわずかでもあるのだろうか?目じりには、人生の痛み知っている優しさがちゃんと宿っているだろうか?その眼差しは、自分だけを見つめているのではなく、隣人を真剣に見つめているだろうか…?
自身が辿って来た歩みを振り返ると、残念ながらあまり自信はありません。
ただ、悲観しすぎなくても大丈夫です。希望はあります。人の「顔つき」は変えられ続けることが出来できます。20・30代で足りなかったとしても、40代でも顔つきは造られ続けていきます。50代でも、60代でも、そして90代でもです。
大切なことはリンカーンの言うとおりに「自分の顔に責任を持つ」ことです。それは、自分の生き方に責任を持つということであり、生き方に心を配るということであると思います。
私達は自分の表情に気を配っているでしょうか?革命家のチェ・ゲバラはこう言いました。
「人は毎日髪を整えるが、どうして心は整えないのか?」
ブランドで着飾っても、高級車に乗っていても、顔つきは変えられません。顔つきは心を見張り、生き方に気を配ることによって変えられていくのです。
箴言4:23 何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。
ところで、聖書には「良い顔つき」以外にも、「特別な顔つき」した人が記されています。
使徒6:15 最高法院で席に着いていた人々が、みなステパノに目を注ぐと、彼の顔は御使いの顔のように見えた。
ステパノは初代教会の世話役のひとりでしたが、彼が迫害を受け議会に連れて来られたとき人々の目にはステパノの顔つきは「御使いのよう」に見えました。
自分のいのちが脅かされている迫害の場で、ステパノの顔にはおよそ普通の人に見ることの出来ない平安、確信、喜び、気品、美しさが宿っていたのです。
どんな状況の人生の状況の中にも揺るがされず、むしろ、困難の極みに立っていくほどに平安と確信が際立ってくる輝き、そういう「顔つき」をした人々が聖書には登場するのです。
御使いのようなステパノの「顔つき」はどのように彼に宿ったのでしょうか?聖書はステパノのことをこう記しています。
使徒6:5‐6 彼らは、信仰と聖霊に満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、そしてアンティオキアの改宗者ニコラオを選び、この人たちを使徒たちの前に立たせた。使徒たちは祈って、彼らの上に手を置いた。
ステパノは聖霊に満ちた人でした。つまり、イエス・キリストを主と信じる者の内側に住まわれる聖霊なる神に明確に出会い、聖霊との親しい交わりの中を生きている人でした。
内住の聖霊との明確な出会いと、深い交わり。そのような日々の生き方がステパノの顔つきを造ったのです。
ステパノの顔を輝かせた同じ聖霊が私たちの内にも同じように住まわれています。同じ恵みが注がれているのです。私たちがステパノと同じように、内住の聖霊との親しさを求め、この方との交わりの中を生きるなら、私達の顔つきも変えられていきます。
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