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恵みを生きるシリーズ#14 神との格闘1




ディボーションメッセージが長くお休みになってしまいましたが、「恵みを生きるシリーズ、ヤコブ物語」を再開して書いて行こうと思います。またお付き合いくださって、ご一緒にみことばの学びを深めて下されば幸いです。

 

神との格闘

創世記32:21-24 それで贈り物は彼より先を通って行き、彼は宿営地でその夜を過ごした。しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

 

自分の家族としもべがすべて出て行った後、ヤコブが一人残って夜を過ごす姿が書かれています。自分の出来ることやり尽くしても助かる確信を得られず、結局、祈りへと導かれるヤコブの姿です。

 

すると、一人の人が近づきヤコブと格闘を始めました。この格闘を始めた人は御使いであることがホセア書に記されています。また、多くの聖書学者たちはこの御使いは旧約における主イエスの顕現だとしています。

 

ホセア12:3‐4 ヤコブは母の胎で兄のかかとをつかみ、その力で神と争った。御使いと格闘して勝ったが、泣いてこれに願った。ベテルでは神に出会い、神はそこで彼に語りかけた。

 

主ご自身、または御使いであったとしても、ホセアが記しているように本質は「ヤコブが神と争った(格闘した)」ということです。

 

私たちは人生の中で多くの物事や人と格闘します。おやつのことで兄弟と取っ組み合うこともあれば、算数の宿題と格闘することもあります。仕事と格闘することもあれば、子育てと格闘することもあります。私たちは何かと取っ組み合い、格闘することで人生の幸せや大切なモノを手に入れて行きます。

 

誰もが生きる上で様々な物事と格闘してきたと思いますが、あなたはこれまで神様と闘うような、取っ組み合うような本気の祈りをされて来られたでしょうか?

 

 

空を打つ拳闘

Ⅰコリント 9:26 ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。


人生の格闘において重要なことは、単に目の前の事や人と格闘することではなく「私は何と格闘するべきか?」という問いです。

 

パウロは、教会に対して「私はゴールが不明瞭なレース、意味のない拳闘はしない」と語ります。つまり人生の格闘において戦うこと以前に、「自分は何を目指し、何と格闘すべきなのか?」をしっかり見極めることが重要であるということです。

 

NHKが東京の24h営業スーパーマーケットで、深夜に買い物に来る人々の人間模様を写す番組を放送していました。一人分の夜食を購入した年配の会社経営者がインタビューにこう答えていました。

 

「正直、お金ならあるんですが、一人で食べるご飯が寂しいです。私も昔は家族でご飯を食べていたんです。でも色々あって誰もいなくなってしまいました。昔が懐かしいです。あの時に戻りたい…。」

 

仕事と格闘して金銭的・社会的成功を手に入れることはとても素晴らしいことです。しかし、インタビューを受けた方が語った人生の一つの結論は、「本当に幸せになるために取り組まなければならない物事は、最も大切な人との関係に取組むことにあった。」ということでした。

 

私たちも人生も神様との関係に取り組むことなしには、どんな戦いを闘っても「空を打つ拳闘」になってしまいます。

 

 

神との関係を喪失した働き

聖書は、祈りなしの働き、つまり神様との関係を失ったままで働くことの虚しさを私たちに伝えています。

 

伝道者の書2:11-25しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。…私は、日の下で骨折った一切の労苦を見回して、絶望した。…実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。

 

「空の空。」と語り始める伝道者の書は、一見「この世の何もかもが空しい」と語っているように読めますが、その書全体のメッセージの結論は、「神を知らず、従わず、生きると、すべてのことが空しいのである。」です。著者とされるソロモンはこの地上で偉大な事業を成功させ、他国の王たちが息をのむほどの豊かな国を築きました。しかし、それを成し遂げた彼自身が、神様との関係を無視したまま仕事をしても「何の意味もなかった」と語るのです。つまり、人生とは神様との関係の中でしか本当に意味のあるものとして結実していかないということです。

 

アブラハム・リンカーンは、「神様、決してあなたなしで成功させないでください。」と祈ったそうですが、神様との関係を失ったままの成功は空しいものなのです。

 

ヨハネ15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

 

 

また、祈りの重要性が語られるとき、実際の戦いや、現実の仕事が重要でないという勘違いが起こることがありますが、それは全くの間違いです。聖書は実務を軽視していません。「行動の伴わない信仰は死んだものだ。」とヤコブ書にあるように、現実の働きをとても重要視しています。パウロも霊的世界を極端に特別視し、物質世界を軽視するギリシャ的世界観(グノーシス主義)は間違った教えだとして教会に警告しています。

 

この世界の物質も私たちの肉体も、そして体を動かす労働も、本来神様が創造されたものなのです。それらに意味が無いのではなく、すべてのことに命を吹き込み、全てを価値のあるモノ、意味のあるモノとして生かして下さる神様が関わらなければ、全てのことが虚しくなってしまうのです。

 

聖書が語る虚しさとは「物事の虚しさ」ではなく、「物事の中に神様との関係を見失ったことに対する虚しさ」です。ですから、「神様との関係」に取組むための格闘の場所、祈りが他のどの働きよりも優先されるのです。

 

 

本当に良い仕事をする人は、実務の前に脳内で汗をかくことを大切します。仕事の目的を明確にし、計画を立て、段取りを組みます。仕事を本当に良いものとするために闇雲に仕事に手を付けません。

 

私たちも人生でまず取り組む場所、汗をかく場所を間違えていけません。祈りの中で神様と関係に取っ組み合うことから、神様によって結果が実る意味のある人生が生れます。

 

 

戦いの場

エペソ6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。


パウロも私たちの人生の戦いの主戦場が「霊的な場所」にあることを語ります。エペソ6章では悪霊との戦いが強調されていますが、聖書全体から見える霊的な戦いは、基本的に祈りを通しての神との格闘です。

 

アブラハムは子が与えらない将来への不安を、星空の下で祈りながら神様と語り合いました。モーセはアマレク人との戦いで、高台に登りとりなしの祈りを捧げ続けました。ヨシュアたちのエリコ攻略戦は、沈黙の祈り(神様への従順と信頼)を積み上げる戦いでした。イエス様もメシヤの働きの最初に荒野で祈りと誘惑の試練があり、十字架の御業を成し遂げるその直前にもゲッセマでの祈りの格闘がありました。

 

実際の戦いや働きの前に、大切な祈りの戦いがあることを聖書は繰り返し私たちに教えています。

 

マタイ 18:18 まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。

 

イエス様が語られているように、天と地は無関係ではありません。地上の現実は天と繋がっています。天で物事が動けば地もでも実際に動くのです。ですので、祈りは気休めではありません。霊的な祈り場こそ、私たちが人生の中でまず取り組むべき現実の戦いの場です。

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