ルカ1:28‐30「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると、御使いは彼女に言った。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。」
プロ野球の名監督・落合博満氏は本質的な言葉を語る人でしたが人生についてこう語っています。「人生に問題があるのではなくて、問題があるのが人生なのだ。」
人生に問題が起ることを悲観するのではなく「問題の中を生きること」の大切さを教えられます。
受胎告知の際にマリアは「ひどく戸惑った」とあります。別訳では「胸騒ぎ」と訳されていますが、マリアは御使いの訪れにこれから起こる数々の困難を無意識に感じ取っていました。そして胸騒ぎは現実のものとなりました。
まず聖霊による妊娠を身近な人々に理解してもらうための戦いがありました。その後もメシヤ預言成就のために臨月の身で旅をする羽目となり、汚い家畜小屋での出産を経験していきます。
さらにはメシヤの誕生を知ったヘロデ王が、王座を失うことを恐れてベツレヘム近辺の二歳以下の男子全員を虐殺しました。(マタイ2:16)一家は御使いに導かれ無事に逃れますが、我が子がきっかけで子供の大虐殺が起きたことはマリアの心に重たく圧し掛かったでしょう。
幼子は成長し30歳でメシヤとして働き始めますが、命を狙われるほどに指導者層との対立を深めていく息子の姿をマリアはどれほど心配したでしょうか。そして、ついに息子は十字架に架けられてしまいました。
受難を映画化した「パッション」ではマリアが十字架の道で慟哭する様子が描かれていましたが、愛する息子が目の前で死刑に処せられることは言葉に表せないほど悲痛な経験だったはずです。
「キリストが来られたこと」によってマリアの人生に悩みと心配、迫害、戦い、悲しみ、喪失といった多くの苦難が増し加えられました。マリアの姿を見る時、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。マタイ10:34」との主の言葉を思い出します。
主がその人の人生に来られるという出来事は、「人生に救いの光がもたらされる」という喜びの出来事であるのと同時に、主と共に生きる戦いの中に入れられた出来事でもあるのです。
真の王であるキリストの降誕に対してヘロデが立ち上がったように、キリストが来られる所には光と闇、偽りと真実がぶつかる戦いが起こります。また主の御業が成し遂げられていくために起こる混乱・困難もあります。「信仰を生きるからこそ」私達には多くの問題が起きるのです。それが信仰人生の一面なのです。
しかし、御使いは困難が訪れる前にマリアに語りました。
「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。」
神様は信仰人生に数々の問題があることを知った上で、「恐れるな。」と最初に語られるのです。「主が来られた人」の人生には多くの問題が起きますが、神様はそれでも「あなたの人生は恵みの人生だ」と宣言されます。
問題のない信仰の歩みなどありません。問題があるのが信仰を生きる人生なのです。しかし、主にあった歩む人生は、問題の痛みや悲しみを補って余りある程に「生きる価値のある恵みの人生」です。
神様がマリアの信仰の歩みの始めに「恐れるな」と語られたのは、苦難の中で人生が恵みに満たされてることを忘れないためです。また、後に困難の中でそのみことばの約束に立ち戻ることの出来るためです。私たちも人生の困難の中で「恐れるな。あなたは恵みを受けたのだ。」というみことばに立ち戻りたいと思います。
主は弟子たちに、「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。ヨハ ネ16:33」と語られました。
私たち人生の旅路は自体は不透明で曲がりくねったものなのですが、そのゴール、結果については神様は保証されていることも心に留めたいと思います。
「主が来られた人」の人生の結果は必ず「主の勝利」によって終わるのです。どのような苦難があった人生であっても、いつしか天において、主の御許で、人生の神秘が明らかにされる中で、「主に与えられた人生を生きてよかった!」必ずそう思わされる時が来るのです。それが主が約束された恵みなのです。
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