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「キリストの体」としての教会:イエス様中心

キリスト教会が昔から抱え続けている異端問題に天使・聖人信仰というものがあります。「聖〇〇様」と言って天使や聖人(特別な信仰者)に向かって祈る信仰です。吉田隆(神学者)はこのような信仰が起きる背景をこのように書いています。「聖書と教会の歴史上、天使や聖人が重んじられる時代というものがあります。そこには、ある共通した現象があります。それは、神様と人間との距離感が開く時代です。神様があまりにも遠い存在、畏れおおい存在として、離れていけば行くほど、その間を埋めるような存在が現れてきます。」(五つの“ソラ”からP104-105)


 聖人信仰の根源的な問題には神様と人間との距離間があるという指摘は非常に考えさせられます。プロテスタント教会の私たちはもちろん聖人信仰という教会文化は全く持っていませんが、語弊を恐れずに言えば「先生信仰」的なものはあります。例えば、大きな聖会で「〇〇先生に祈ってもらうなら癒される!」と長蛇の列を作ったり、地域教会内でも牧師に導きを祈ってもらうことで神様が答えて下さると信じる信仰があります。もちろん、牧師や伝道者、特別な賜物がある人に「共に祈ってもらうこと」はとても聖書的なことですが、一定数の人達は「先生に祈って貰うことで祈りが聞かれる」と信じています。そのような信仰は構造的には聖人信仰と同じです。神様と個人との間に「私なんかが祈っても聞かれない…」というような関係の距離があるのです。そして、その神様との距離を埋めてくれる「素晴らしい先生」が必要だと思うのです。

 しかし、聖書が私たちに教えている健全な信仰は、全ての信仰者が神の子として、または聖なる祭司、神の国民として偉大な主と親しく語り合えると特権を頂いているというものです(Ⅰペテロ2:9)。プロテスタント教会はこの信仰を「万人祭司」という言葉で理解してきました。すべての人が選ばれた祭司と同じように神の前に出て行き、神様と語り合うことが出来るという信仰です。

 キリストの体である私たちは、「先生」ではなく「イエス様」を眼差しの中心に置き、一人一人が直接イエス様に祈ったり、聞いたりすることを通して、「頭なるキリスト(コロ1:18)」繋がることが大切です。

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