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「キリストの体」としての教会:ネットワーク2

「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。伝4:12」とありますが、神様は人を共同体としてデザインされました。私たちは他者と繋がりを持ち、共に生きるときに真の力を発揮するように造られています。この真理はとてもシンプルで分かりやすいのですが、私達が熟考すべき点は「では、どうすれば私たちは共同体になれるのか?」です。


 先日、東京のタワーマンションが立ち並ぶエリヤで牧会をする牧師の話を聞かせて頂きましたが、東京の中でも富裕層達がこぞって集まってくるエリヤの大きな一つの問題は「孤独」だそうです。豪華な高層ビル1棟の中に3千人近い人が共に暮らしていますが、隣人との繋がりはほとんどなく、多くの人が人生の問題を一人で抱え込み、心の病気、引きこもり、飛び降り自殺が大きな問題になっているそうです。皮肉なことはビルの中には医者、弁護士、企業コンサル、大企業の経営者や役員等の知恵者が集まって一緒に住んでいるのですが、彼等は生活の場において、お互いをお互いの益となる存在として用いることが出来ていないことです。

 教会も同じですが、場所を共有するだけで人は共同体にはなれません。「繋がり」を持つ必要があるのです。モノや人を繋いで情報や資産を共有する仕組みのことをネットワークと呼びますが、人と人、教会と教会を繋ぐ仕組み:ネットワークが教会には必要です。そして、その仕組みこそ共同体になるための共同力なのです。


 出エジプトの当初、イスラエルの民は一緒に荒野をさまようだけで、互いの力を合わせる仕組みを持っていませんでした。結果、民の生活の諸問題は指導者モーセ一人に集中し、問題解決は遅々として進まず民全体が苦しんでいました。神様はモーセに対して姑イテロを通して「民を組分けし、それぞれにリーダーを立て全体を組織化」するように助言します。イテロの言葉の通りに行った結果、民は互いを互いの益のために用いることが出来るようになりました。

 神の民である教会にはある程度奉仕グループ等の互いを全体の益として用いる仕組みが必要です。仕組みづくりは地味で手間がかかる仕事です。また互いの協力が不可欠です。しかし、その取り組みは私たちを幸せにします。

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