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いかれた星の評価



創世記3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。



「劣っていると言われて育った このいかれた星で 普通のふりして気づいた 誰が決めつけた 私の光はただ此処にあった 喜劇/星野源」


人気歌手、星野源の「喜劇」という曲の一節ですが、「自分を劣っている」と評価していたのは「いかれた星の人たち」であり、その評価自体が的外れなものであったということ気づいたとの歌詞にハッとさせられます。


現代は評価社会です。会社には当たり前のように業績評があり、教育現場で子供たちはその大部分を学力で評価されます。インターネットを覗けばAmazonの口コミ評価に、SNSでの人物評価‥など、世界には評価が溢れかえっています。


評価は人や物事を見分ける時に必要なのですが、問題は世界には正当な評価だけではなく、誤評価や軽薄な評価が溢れていることです。


専門家でない人が専門家のようにふるまって政治や医学などの論評を書いたり、ネットの一面だけで人を評価したり、時には誰かを攻撃するために悪意を持って低評価をつけたり、信用に値しない評価が当たり前のように発信され、日常の中の声の中に紛れて私たちに届いています。


そんな玉石混合の評価の声に無意識にさらされながら、自分の評価基準が形作られていると思うと怖くなります。自分の内側にある、物事や、人や、自身を評価するための「物差し」は歪んでないだろうか?そのように考えさせられます…。



ところで、創世記を読むと人が正しい自己評価を失ったのは悪意ある評価であったことが分かります。


神様は人を創造された際、人を「神の似姿(創1:27)」に創造されました。重要な点はこの時点で人はすでに「神の似姿」に創造されており、被造物の中でどの存在よりも「神のような姿」をしていたのです。そして、その人の姿を神ご自身が「非常に良かった。(1:31)」と評価をされていました。


しかし、蛇(サタン)が人に悪意を持って偽りを語ります。「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。


ここで蛇は、人に「神が禁じた善悪を知る知識の木の実を食べると、あなたは“神のようになる”」と言いましたが、これは言い換えれば「あなたは“まだ神のようではない”。欠けている。足りていない。だから禁じられている実を食べて“神のようになるのだ”。」と言っているのです。つまり、偽りの評価を人に告げたのです。


人はその悪意ある偽りの評価を鵜吞みにし、すでに「神の似姿」なのにもかかわらず、「神のようになろう」として、神様に背く罪を犯してしまいました。そして、神様との関係を失い、自分を創造された方の本物の評価の声が聴こえなくなりました。


それ以来、人は罪の世界の中で偽りの評価の声を聴きながら過ごしています。「あなたはまだ足りていない。あなたはまだ良くない。あなたは劣っているのだ。」そんな歪んだ声が響く中を生きているのです。



偽りの評価が人を狂わせました。ですから、回復するためには必要なのは正しい評価です。聖書は罪の世界で歪んだ私たちの自己評価に対して、神様の評価を語り続けます。「わたしの目にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。イザヤ43:3」


私たちを高価と語られる神様の評価はリップサービスではありません。イエス様が十字架で命を捧げてまで私たちを取り戻そうとされたほど、人は神様にとって価値のある存在なのです。



神様の愛の言葉を聴くとき、「いかれた星」で聞こえていた歪んだ評価から私たちは解放されていきます。


そして、私たちを創造され、私たちを知り尽くして下さっている方の正しい評価の中で本来の自分の姿を見出し、新しく生きることが出来るのです。

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