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へりくだりの礼拝者たち


ルカ2:11ー12 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。


最初のクリスマスに礼拝に導かれたのは羊飼いたちと東方の三博士でした。


この二組の礼拝者は面白いほど対照的な存在です。羊飼いはイスラエル人であり社会の最下層の人々であったの対して、博士たちは異邦人であり旅先で他国の王(ヘロデ王)に謁見できるほどのハイクラスの人々でした。


国も、育ちも、辿ってきた人生の経験も全く違う両者でしたが、彼らには共通しているものがありました。それは「へりくだり」という礼拝の心でした。


彼らはそれぞれに特別な星によって救いの主のもとに導かれましたが、辿り着いてみるとそこにいたのは拍子抜けするほど普通の男の子でした。


汚い飼い葉おけに寝かされたその姿は、宗教画のように後光がさしていたわけでもなく「救い主」と呼ぶにはあまりにも頼りない姿だったはずです。


しかし、彼らは神様が知らされたことを信じて、目の前の男の子を「救い主」として伏して礼拝しました。



二組の礼拝者には、目に見える現実よりも神の良い知らせ「福音」を信じるという「へりくだりの心」がありました。今日、私たちは彼らのようにへりくだりの心を持って主を礼拝しているでしょうか?


ボンヘッファーが記したクリスマスの言葉に、自身のへりくだりの心を深く探られます。


「我々はこの「みどりご」に、どのように出会おうとするのであろうか。


我々の手は日々の労働のためにあまりにも堅くなってしまい、あまりにも誇りに満ちたものとなってしまっているため、この子供を見て祈るために手を合わせることができなくなってしまっているのではないか。


我々の頭は、多くの困難な問題を抱えこみ、その問題を解くことによってあまりにも高慢になってしまっているため、我々はこの奇跡そのものである子供の前で謙遜にひざをかがめることができなくなってしまっているのではないか。


我々は、自分のさまざまな努力や、業績、重要な事柄に気を奪われすぎるため、良い羊飼いや東方の博士たちとともに、飼葉桶の中の神の子の前にひざまずき、この子供を見て我々の生全体が成就したのだということを感謝をもって認識することができなくなってしまっているではないか。


自分を誇りに思う強い人間がこの子供の前でひざをかがめることや、単純な心を持ってこの子供の中に救い主の面影を見いだすことは、本当にまれなことであろう。


ディートリッヒ・ボンヘッファー」

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