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アサの怒り


Ⅱ歴代誌16:10アサはこの予見者に対して怒りを発し、彼に足かせをかけた。このことで、彼に対し激しい怒りをいだいたからである。アサはこのとき、民のうちのある者を踏みにじった。

南ユダ王国のアサ王は主を慕う名君でしたが、聖書は晩年アサの信仰が凋落したことを記しています。事の次第は北イスラエルとの緊張が高まる中、アサが対イスラエル政策として隣国アラムに頼ったことでした。王として隣国と政治的なやり取りをすることは問題ではありませんが、アサはこのとき国庫にある資金だけではなく、聖別されている神殿の金銀を取り出してアラムに渡しました。結果としてアサは領土を守るだけではなく、領土を広げる政治的成功を手にしました。

しかし、すぐに予見者ハナニが主から遣わされて「あなたはアラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでした。16:7」とアサの心を暴きつつ悔い改めを迫りました。ハナニの言葉を聴いたアサは激しい怒りに燃えてハナニに足かせをかけてしまいました。


さらにアサは最晩年に両足を悪くしますが、「彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。16:12」とあるように、徹底的に神様を求めず背を向け続けました。

予見者ハナニの言葉を聴いたときにアサは激しい怒りを燃やしたとありますが、アサの信仰の凋落には明らかにみことばに対する怒りが関係しています。詳細は書かれていませんが、察するにアサは政治的な判断において、「自分は正しいことをした。」または、「難しい状況の中においてベストを尽くした。」と思っていたのに、主に「あなたのやったことはわたしを頼らない行為だった。」と言われてしまったことに激しい怒りを燃やしたのでないかと思います。

もちろんアサの怒りの詳細は不明ですが、私たちにはみ言葉に対して怒りを覚える時があります。一生懸命に考え、自分なりに最善を考えて行動したのに、みことばに「あなたのやったことは良くないことだ。」と言われてしまう経験です。仕事の判断の中で、子育ての中で、奉仕の中で、私たちはみ言葉に対する怒りを体験します。そして、み言葉に対する怒りはそのまま主への不信感となり、放っておくと最終的には主との関係を閉ざしてしまうようになります。

みことばに対して怒りの感情を持つときに大切なことは、まず最初に自分の怒りの正当性を疑うことです。つまり、自分の怒りの主張が本当に正しいのか落ち着いて考えることです。箴言29:11では「愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる。」と、怒りをコントロールすることの大切さを教えます。怒りは自然な感情でありとても大切な感情ですが、怒りはまずコントロールされるべきです。怒りに自身が支配されるべきではありません。

二つ目に大切なことは、主は断罪される方でなく語り合って下さる方であることを思い出していくことです。放蕩息子のたとえ話には、父に対して怒りを覚えた兄息子が登場しますが、父は怒る兄息子を叱りつけず、彼をなだめて語り合おうとしました。

私たちが主に対して怒りを覚える時、主はなによりもまず怒りの原因について語り合おうとして下さっていることを思い出していく必要があります。

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