top of page

不安の中で眠る



詩編4:8 「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」


大企業に勤める友人が興味深い話しをしてくれました。会社の生産体制に大きな改革があり、他企業への出向者が沢山出るかもしれないという噂が会社の中で広まったそうです。すると、家庭や家のローンを持つ社員たちを先頭に皆がこぞって騒ぎ出し、何とか出向から免れるようにと動き出したそうです。友人は「誰もが驚くほどに心を揺さぶられて不安になっている様子に驚いた。」と語っていました。


私たちは生活の中で起こる出来事に大いに揺さぶられる時があります。作家の吉川英治は「背中哲学」という文章の中で、「どんなに豪快に笑い、磊落(らいらく)を装っていても、その背中を見ると、安心があるかないかわかる気がする。吉川英治/背中哲学と書いていますが、どんなに豪快に見える人であってもその背中には不安が見えてしまうものだということです。この世の中に不安を感じない人はおらず、不安で眠れぬ夜を過ごすことは誰にでもあるものです。


時々、「不安を持つこと=不信仰」というニュアンスの言葉を聞くことがありますが、これは間違った信仰観です。


詩編4編を含むいくつかの詩編はダビデが息子アブシャロムが起こしたクーデターの中でエルサレムを追われ、今日にでも命を落とすかもしれない不安の中で紡ぎだされた詩編です。


ダビデはこれらの詩編の中で不安の心を取り繕うことなく神様の前に注ぎだします。そこには偉大な勇士ではなく、不安に心を揺さぶられ只々主にすがりつく信仰者ダビデの姿があります。信仰者であろうと私達の本質は弱い存在なのです。将来どころか、明日も見えない者なので私たちは不安になるものなのです。 何よりも神様ご自身が「私たちがちりにすぎないことを心に留めて」下さっています(詩103:14)。つまり、私たちが不安に陥らないようにしようと頑張っても、少し強い風が吹けば簡単に混乱と不安の中に陥る存在であることを、神様の方がちゃんと知って下さっているのです。



不安に揺るがされるとき私達は自身の信仰に対する視点を変える必要があります。中国宣教に用いられたハドソン・テーラーは「偉大な信仰はいらない。偉大な神への信仰が必要なのだ。」と真の信仰のあり方を語ります。


彼が語る通りどんな不安にも揺るがされないような偉大な信仰は私達には必要ありません。私たちに必要な信仰とは、どんな状況の中でも私達に平安を与えることの出来る「偉大な神様に頼る信仰」なのです。


私はダビデはかなりキツい状況の中で、きっと泣きながら、うろたえながら夜を過ごしたのではないと想像します。生きた現実の信仰者の姿とはそのようなものだと思います。


しかし、ダビデは不安の中で”主”に心を注ぎだして頼ったのです。その結果、ダビデは命を脅かす程の不安の中にあっても主の平安を得て眠りにつきました。小さな子供がひとしきり泣いた後、母親にあやされ安心して眠るような姿です。これが不安の中で主に頼る信仰を持つ者の姿です。


不安な夜は自力で超えるのではありません。“主だけ”が私達を安らかに住まわせることの出来るお方であることを覚えたいと思います。

閲覧数:33回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page