Ⅰペテロ2:19(新共同訳) 不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。
20世紀で最も多くの人に福音を語った伝道者と言われるビリー・グラハムですが、彼が若い頃、彼と共に働いたチャールズ・テンプルトンという伝道者がいました。テンプルトンは当時グラハムをよりも注目を集めるほど熱心で優れた伝道者でした。
しかし、彼はあることをきっかけに信仰を捨て無神論者になってしまいます。原因は彼が雑誌を通して一枚の写真に出会ったことにありました。それはアフリカの飢餓問題の記事に載っていた写真で、痩せ細った女性が死んだわが子を抱きながら泣き叫んでいる姿が鮮烈に写し出されていました。
この写真はテンプルトンの心を刺し通しました。そして、理不尽な苦しみが世界に溢れているのに、愛であられるはずの神は一体何をなさっているのだろう?と悩み始めました。しかし、悩んでも納得のゆく答えは見つからず、次第に悩みは疑いに変わり、ついには神を認められなくなって信仰を捨ててしまいました。
聖書が教える通り、信仰の歩みには苦しみがあります。多くの場合私たちは苦しみに信仰をもって勇敢に立ち向かっています。しかし、時々信仰を打ち砕いてしないそうな苦しみの波が押し寄せることがあります。それは理不尽な苦しみ、被る理由が見当たらない不当な苦しみです。この波は時としてテンプルトンのような信仰者でさえ簡単に打ち砕いてしまいます。私たちはこの波に対して正しい姿勢を取る必要があります。
ペテロはこの手の苦しみに対して「神がそうお望みだとわきまえて」と勧めています。不当な苦しみの対処の秘訣は、苦しみの理由を理解することではなく、この状況を神が望まれているんだと理解することです。
私たちは苦しみの中に納得のいく理由を見つけようとします。何故なら、懲らしめ、成長、人の為…正当な理由を発見するとき、私たちは苦しみを受け入れることが出来るからです。しかし、不当な苦しみは不当であるが故に、どんなに考えても納得のいく理由を見つけることが出来ません…。
理解を超えた苦しみに出会うとき、私たちはそれを理解しようとしすぎると罠にはまります。そもそも、私たちは神様が造られた「驚くべき世界」のすべてを理解し自分の頭に入れることが出来ると勘違いしていますが、それは無理な話です。神様が造られ世界で起きる出来事も、神様のなさることも、私たちの理解をはるかに超えた領域があることが現実なのです。
いつでも正当な理由や意味を求める私たちに対して、バーバラ・B・テイラーは、「結局言ってみれば、私たちは説明のほうが神秘よりも簡単に受け止められるのです。天国の種 P69」と語ります。
ここでテイラーが伝えたいことは、私たちは理解できることを受け止めることは上手だが「神秘:私たちの理解を超えた神の領域」を受け止めるのが下手だということです。そして、理解以上に大切なことは「神秘」を信じて受け入れることです。
人生の苦しみにおいても、「全て」は理解できないものなのです。苦しみには私たちの理解から隠されている神秘の領域があるのです。ですので、私たちは苦しみの全てを理解しようとするのではなく、理解できない領域置いては、なおいっそうに苦しみの背後で働いておられる主を信じることが大切です。
人知を超えた愛で人を愛される神が、人には理解できない方法で働いておられると信じるのです。そして、ペテロが語るように「神がそうお望みだとわきまえて」苦しみを「信仰:神への信頼」によって受け止めるのです。
ペテロは後に続く節でイエス様が十字架で不当な苦しみを背負ったことを語り、信仰によってその苦しみに耐える者を主の足跡を行く者だと教えます。不当な苦しみは人生に大きな苦しみを与えますが、信仰によって歩む時、それは十字架のような神の愛の御業に変わります。
理解ではなく、主を信頼して苦しみの道を歩む者のたどり着く先は、私たちの理解を超えた神の偉大な御業です。
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