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主の祈りを学ぶ#1 異邦人の祈り

更新日:2023年1月19日




今回からしばらく「主の祈り」について豊田師の著書をガイドにご一緒に学んでいきたいと思います。 


第一回目は「異邦人の祈り」についてです。


マタイ6:7 祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。 


「主の祈り」はイエス様ご自身が教えられた祈りであり、聖書の中で最も重要な祈りですが、興味深いことに主は「祈りのことば」を教える前にまず「異邦人のような祈り」をやめることを弟子たちに教えられました。私たちの祈りにとって大切な最初の一歩とは「異邦人のように祈ることをやめていくこと」です。

  

豊田師は祈りついてこのように語ります。


「「祈り」ほど「神観」、神をどのようなお方だと考えているかを明らかにするものはありません。5p」 


神様に向かって語りかける私たちの祈りのことばには、根本的に「私が神様をどのような方だと信じているか?」という「神観・神様のイメージ」が反映されます。



イエス様は「ことばを繰り返す祈りをやめなさい」と教えられましたが、これは当時、願いごとを呪文のように繰り返しながら祈る人たちがいたからです。


その人たちは「祈りのことば数が多い」と願いを神に聞き入れられると思っていました。換言するなら、その人たちは聖書の神様を「願いごと繰り返さないと私に関心を向けてくれない神」であると潜在的に信じていたということです。ですので、言葉を繰りし神の関心を得て願いを聞き入れて貰おうとする祈りをしていたのです。 


これは主ご自身が言われるように異邦人の祈りであり、異教的な神観に基づく祈りの言葉なのです。祈りを向ける相手である神様を偶像の神々のよう方と誤解、または混同している心から出てくる祈りです。 


主は先ずこのような神観で祈ることをやめるように教えられました。なぜなら、私たちの信じている神様は「人に無関心な神」ではなく、「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。マタイ10:30」と書かれているように私達に対して「関心の塊」のような方なのです。 父なる神様は、たとえこちらが無関心であっても愛の眼差しを向け続けられる方なのであり、私達が生活している日本の文化の中で無意識に触れてきた異教の神々とは全く違うお方なのです。



私達も相手に自分の人格を誤解されたまま話しをされると困ります。たとえ私が相手を騙すつもりがなくても相手は「この人は騙すかもしれない」と警戒してくる、そのような誤解がある中では相手との良い交わりを築くことは難しいでしょう。


また、こちらがどんなに良いことばをかけても相手がまっすぐに受け取ってくれないことも起きるでしょう。


それと同じように、祈りは神様との人格的な交わりなので「祈る相手」である神様のご人格を誤解して祈り始めると、そこでなされる交わりはも良いものとして築かれていきません。


神様との「良い祈りの関係」を築くためには、まず神様のご人格に対する私たちの誤解や歪みを解かなければなりません。





「私は父なる神様をどのようなお方と信じいるだろうか?」その問いから祈りの世界に入っていくことが大切なのです。


異邦人のように主を仰ぐことをやめ、父なる神様をみ言葉に書かれている通りの「他に比べることの出来ない良い神」として仰ぎ見ること。そこから「主の教えて下さる祈り」の世界が開かれていきます。

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