主の祈りシリーズ#10「イエスの心で祈る主の祈り 豊田信行著」に学ぶ
マタイ6:10 御国が来ますように。みこころが天でおこなわれるように、地でも行われますように。
主の祈りは、御国の到来を願った後、「御心が天で行われているとように、地でも行われるように」と願うことを私たちに教えます。
「御心が来ますように」との祈りは、「神の御国」、神の統治、支配がまだ完全なかたちでは実現していないことを教えています。P69
マタイ12:28 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
「御国」とはまだ完全なかたちで来ていません。ですから、主は「御国が来ますように」と祈ることを教えられました。しかし、同時にイエス様は「神の国はもうすでに来ている」とも言われました。「天で行われる御心が地でも行われること」を願う前に、まず考えたいことはイエス様が語られた「御国の現状」をどう捉えればいいのか?ということです。
御国が来つつある世界
第二次世界大戦中、ナチスドイツがヨーロッパを支配していましたが、1944年6月6日に連合軍(アメリカ、イギリスなどその他)がフランス北西の沿岸部でノルマンディー上陸作戦を展開しヨーロッパ侵攻を開始しました。
ナチスに対して決定的な反撃作戦が開始されたこの日のことをアメリカの軍事用語で「Dday」と呼びます。それに対して、ナチスドイツが連合軍に完全降伏した1945年5月8日(ヨーロッパ戦勝記念日)を「Vday」と呼びます。
つまり、勝利を決定づける出来事が起きた日がDdayであり、完全に勝利がもたらされた日がVdayです。
D-Vの間は、勝利は確実なものとされながらも勝利の現実が徐々に進行・浸透していく期間なわけなのですが、これを「御国:神の統治」に置き換えるなら、Ddayがイエス様が十字架で死んで3日目に復活された日であり、Vdayはイエス様の再臨の時となります。
私たちが生きている世界は、罪とサタンという敵に対して、主の十字架によって神様側の決定的な勝利がもたらされていますが、まだ完全に神の支配が世界全体、及び隅々まで届いているわけではありません。
神の国の完全な到来であるVdayは確実なものとして近づき、神の支配はすで私たちの現実に侵入し、ある地域・領域には神の支配と恩恵がもたらされている反面、ある地域はいまだ敵兵の支配下にあり戦いが続いている状態です。
ある人には福音が届き、神の救いが訪れている。しかし、その隣人にはまだ福音が届けられていない。ある人の人生には「すでに神の統治」が始まっているが、ある人の人生にはまだ始まっていない。まさに「神の国が来つつある」状態、それが私たちの生きている現実の世界なのです。
私たちの内に来つつある御国
また、神の国が来つつある状態を詳細に見ていくならば、私たちの内側にも神の統治が始まってはいるが、いまだ闇の支配が残されている構図があることを発見できます。
イエス様を信じた私たちの心は、すでに神様の支配を受け「良いものを願い」ますが、体には「罪の性質」が残っているので、私たちは「自分の願い」に反して罪を犯してしまいます。
ロマ7:21 そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。
そして、パウロは罪が残っている体の全てが贖われることを願うと語ります。
ロマ8:23 それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。
簡潔に言うならば、私たちの内側にはイエス様を信じた時以来、罪の贖いと、復活のいのちを私たちにもたらして下さる聖霊の内住(神の国の侵入)という決定的な出来事が起こりました。これが私たちの内側に起きたDdayです。
そして、心においても体においても完全なる神様の支配が完成していくVdayは、イエス様が再臨される時です。もしくは、私たちが自分の人生を終えて主の御許に行く時とも言えます。
つまり、私たちの内側にも、D-Vの間、神の国はすでに来ているがまだ完全には来ていない、「御国が来つつある」状態があるのです。
現在進行形で「神様の支配」が侵入し続けている私たちの状態を、ある牧師が「私たちは生涯工事中です。」という言葉で表現されましたが、ぴったりの表現だと思います。
神様の支配、統治によって、私たちを造り変えて下さる「神様の工事」はすでに始まっていますが、まだ完成していません。それが私たちの現状態であり、現在地です。
私たちの欲している願いとは?
さて、そのような「御国が来つつある」状態の中で、私たちの願う願いとは何でしょうか?
それは、少しでも早く、少しで大きく広く、御国がわたしたちの現実に訪れることを願うことです。御国の支配と共に、天で行われている主の御心が地に生きる私の目の前に訪れることを願うことです。
先の大戦末期、ナチスのユダヤ人収容所では、ユダヤ人たちは外から入る僅かな情報によって連合軍がすでに国内に進軍していることを知りました。地獄の日々からの解放がそこまで来ていることを感じました。しかし、現実には目の前でナチスが残虐な支配は継続され同胞たちが目の前で惨殺されて行きます。その中で人々が願ったことは「今日、連合軍がこの場所に来てくれますように。」です。
Ddayはすでに訪れ、Vdayは必ず来ます。しかし、自分達の目の前には神様以外が支配してる悲惨さが繰り広げられています。自分に福音は訪れていても、家族や隣人には福音が届いておらず、死の支配が次々に人々を飲み込んでいきます。
自分の内側にも勝利の知らせは届いていても、勝利の実態はまだ訪れず、日々罪の支配にふりまわされ、パウロと共に「私は本当に惨めな人間です。」と嘆きます。
そんな現実の中で私たちが本当に欲している願いは「今日、私の目の前に御国が訪れますように。」です。私の生きているこの場所に、私の人生に、御国が訪れ、主の御心がなされますよう、と願うのです。
続く
天にいます私たちの父よ。
御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行われるように、 地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みにあわせないで、 悪からお救いください。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。
アーメン
補足説明 神の国の基本的概念
ちなみに世界全体に対する神様の支配を現す概念は、神学では「限定的二元論」という構図で説明されます。すべての主権者たる神様の支配はあらゆる権威の上位にあり、どの時代もおいてあらゆる被造物に対して神様の主権は絶対的なものですが、その根本的な神様の支配の中でサタンの支配が一時的・限定的に許されています。そして、神様の主権の大枠の中で、正義(神側の勢力)と悪(サタン側の勢力)が戦っている構図です。
つまり、神様はサタンも含めたすべての被造物に対して神であり絶対主権者なので、神様のご計画、願い、またはあらゆる抵抗に対する神様の勝利は、私たちの行いに関係なく必ずなされて行くものである。ということです。
それに対して、人間の戦争のようにギリギリのところで正義と悪が拮抗して戦っているという世界観(二元論)は偶像世界の世界観です。
この二元論的な価値観で神の国を考えると、正義と悪、神様とサタンの力は拮抗していて、いつ勝つか負けるか分からないという世界観の中で神の国のことを考えますので、「万が一神様も負けるかもしれない」という神様に対する不健全な心配が常に心の中にあります。
また、正義と悪の戦いが拮抗していると考えるので、自分達もその戦いに積極的に参加しなかれば神の国が負けてしまうという焦燥感を抱きます。そして、戦闘的な思考が信仰の全てを支配していきます。たとえば、二元論に陥っている人の祈りは、祈りの度にサタンに対して攻撃を祈るような祈りになります。心のどこかで、祈らないとサタンに負けると思っているからです。
この地において「霊的戦い」がある事は事実ですが、その際に私たちは限定的二元論に立った神の国観を持つ必要があります。神様はすべての存在を超えて圧倒的な主権者です。私たちの動向が神の国の勝利を揺るがすことはありません。私たち眠っていようが必ず御国は訪れるのです。
このような正しい神の国観に立ったうえで、神様が私たちを神の国の働きに召して下さっていることを考えることが大切です。つまり、神の国は必ず来ますが、神様はそこに私たちが参与するように願われているのです。「勝つか負けるか、分からないので助けてくれ!」ではなく、「神の国の到来というこの偉大な御業にあなたがも加えてあげたい、愛するあなた方とともに神の国を進めて行きたい!」と願われているのです。
限定的二元論なのか、二元論なのか、この視点の違いは私たちの信仰の在り方に大きな違いをもたらします。
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