主の祈りシリーズ#11「イエスの心で祈る主の祈り 豊田信行著」に学ぶ
マタイ6:10 御国が来ますように。みこころが天でおこなわれるように、地でも行われますように。
神様を敬う心
「御国が来つつある世界」で私たちの願いは、「天において完全に行われている主のみこころ」が、「私たちの目の前の現実である地でも行われるように」願うことなのですが、この祈りの大切なポイントはみこころを行うことに主眼が置かれているのではく、みこころを願い求めることに置かれていることです。
イエスは「主の祈り」の中で、「みこころを行いなさい」と命じてはいないのです。「みこころが天で行なわれるように、地でも行われますように」と祈ること、願うことを教えたのです。そのことによって、「父なる神」を敬う心が育まれます。P71
神の国が私自身に到来すること、つまり「神様の支配」が完全に私に到来することは、神様のみこころに自分の意志を明け渡すことを意味します。神様が「Aです。」と願われているのに、私が「いや、Bです。」と言っているなら、神の支配は私たちの内に始まりません。私の願い、意志の明け渡しこそ神の支配の入り口であり、神の国の入り口なのです。
そして、意思の明け渡しは、「神様を敬う心」から始まっていきます。つまり、神様のみこころを尊重し、大切にする心です。
私が望むようにではなく、あなたが望まれるままに
十字架の前夜、イエス様はゲッセマの園でみこころを願いながらも、ご自身の心を父に明け渡すことに苦しまれました。
イエス様は悲しみもだえ、
マタイ26:38‐39「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。…わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」
と祈られました。
十字架の苦しみは、決して罪と交わることのない子なる神であるイエス様が、私たちの身代わりに罪と一つとされていく苦しみです。
私たちの心身も自分の性質とは全く異なったものが侵入してくると激しい拒絶反応が起きますが、それが神様のご性質レベルで起きているのが十字架の苦しみです。ですので、イエス様が「十字架の杯」を飲むということは、私たちの想像をはるかに超えた苦しみなのです。
その苦しみのあまり、イエス様は「この杯を過ぎ去らせてください。」と願われました。
しかし、その後にイエス様は「しかし、私が望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」と祈られました。
イエス様はここで「十字架を去らせてください」という意思の明け渡しをされていますが、「みこころが行われますように。」と願うとき、その前には意思の明け渡しがあるのです。
また、同時に、明け渡しには私の願いよりも、「あなたが望まれるままに…」という神様を敬う心が必要です。神様のみこころが私にとってどのように見えるものであっても、私よりの願いよりも良いものであり、第一であるべきものなのだという神様への信頼が必要なのです。
そのような神様を敬う心から意志の明け渡しは始まり、みこころを求める祈りが広がっていくのです。
意思の明け渡しの力
「みこころを求める心」を阻む私たちの最も大きな問題は、私たちが意思の明け渡しの必要を知らないことではなく、意思の明け渡しの必要を知っていてなお「意思を明け渡すことができない私たちの頑なさ」です。
この自身の「頑なさ」は自力では太刀打ちできないものです。ですからこそ、意思の明け渡しは、私たちの意志の力でなされていくものではありません。
「わたしが望むようにではなく」と祈るのは、意志の力ではありません。意志の明け渡し は、意志の力ではできないのです。
ルカは、(ゲッセマネにおいて)「御使いが天から現れて、イエスを力づけた」(ル カ22・44)と伝えています。 御使いはイエスが「わたしの願いではなく、みこころのとおりに してください」と祈ることを命じませんでした。その決断はイエス自身がなすべきことであり、 キリスト者自身が自ら行うべきものです。しかし、イエスがそう祈ったとき、御使いがイエス に現れ、イエスを力づけたのです。この「力づける」とは「みこころがなりますように」との願いが心からの願いとなるのを助けることです。P73
完全な人として地上に来られたイエス様でさえ、天からの助けに支えられて意思を明け渡していかれました。
また、信仰の人ヤコブも、ヤボクの渡しで主の使いに腿のつがいを外されてやっと、神様の前にひざまずき、自分自身の人生を明け渡すことができました。
私たちのなすべきことは、神様に意思を明け渡す決断をすることだけです。そのように信仰に立っていくときに、天が私たちに介入して明け渡す力をくれるのです。
言い換えるなら、意思の明け渡しは不可能なことでないのです。誰でも「わたしの望むようにではなく…」と祈っていくなら、神様がどんな頑なな人にも介入して意思を明け渡すように力づけて下さるのです。
私たちは、神様に力づけれられて「みこころが天でおこなわれるように、地でも行われますように。」と願い求めて行くことができるのです。
天にいます私たちの父よ。
御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行われるように、 地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みにあわせないで、 悪からお救いください。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。
アーメン
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