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主の祈り#12 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

更新日:2023年3月28日


主の祈りシリーズ#11「イエスの心で祈る主の祈り 豊田信行著」に学ぶ マタイ6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。 主の祈りの後半を学んで聞きたいと思います。 日ごとの糧 イエス様は祈りの中で「日ごとの糧」について祈るように教えられています。 「日ごとの糧」とは何を意味するのでしょうか?二つの意味があります、 ひとつは「イエス様ご自身の存在であり、みことば」です。

イエス様はご自分を「いのちのパン(ヨハネ6:35)」であると教えられています。イエス様こそ私たちの「いのち」そのでものです。イエス様との関係を日々求めて行く中に私たちの満たしのある人生が与えられていきます。 また、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つことばによる」とあるように、神様の心そのものである「みことば」を聴くことが、私たちとイエス様との具体的な関係であり、私たちの「いのちの糧」そのものなのです。

ふたつ目は文字通り「食べるパン」です。


つまり、私たちの実際的な食糧であり、体や生活の必要です。私たちはパンだけで生きるではないのですが、パンも必要なのです。実際に食べるパンは私たちの人生に必要不可欠なものです。 みことばのパンと、食べるパン。

霊的な糧と肉的な糧。

これらふたつの糧があってこそ私たちは生きて行けるのです。 霊と肉に優劣はない 初代教会時代にはグノーシス主義という異端的な信仰が始まりましたが、これは端的に言えば霊的なものを極端に重要視し、物質的なものを劣ったものとして捉える信仰です。 現代でも同じように霊と肉体に優劣をつけて考える信仰の考えは意外と身近にあります。

「霊的なモノはよし、肉的なモノはだめ。」

信仰生活の中で何となくそのような考えに触れたことのある方は多いと思います。 しかし、本来は肉体も霊も神様が創造されたものであり、霊肉に優劣はありません。どちらも神様が創造され私たちに与えられた大切なものなのです。

「霊と肉」に優劣をつけてしまう原因のひとつに、聖書における「肉」という表現が紛らわしさを生んでいると思います。


ローマ書等において罪=肉という書き方がされていますが、本来パウロが「肉」と呼んでいるのは、私たちの内側にある「罪の性質、または神様を離れたこの世の価値観」のことであり、肉体や物質そのものことでありません。 経済を例に考えてみたいと思います。


時々、教会の中でお金の話をすると「世俗的で肉的だ。」と言われてしまうことがありますが、正確には「お金の話しをすること」が肉的なのではありません。「神様を抜きに経済を考え、信仰を抜きにお金の計算をすること」が「肉的・世俗的」なのです。 反対に、どれだけ現実的なお金の話しや細かい計算の話しであっても、その真ん中に神様を認め、信頼し、みことばに教えられながら経済を考えることは「霊的な行為」なのです。 神様と信仰を抜きに考えることが「肉的」です。


この公式はよく肉的な領域と勘違いされてしまう「健康、努力、計画‥」などすべてに当てはまります。

「お腹の満たし」に心を向けられる神様 「主の祈り」の順序はランダム、無作為ではなく、神の優先順位を反映しています。優先順位は「優劣の順位」ではありません。イエスは、赦しや誘惑、悪から守られることよりも食べる物の方が大切だと言ったのではありません。主の祈り順序とは、父なる神の心の優先順位です。神は「魂の満たし」だけではなく、「お腹の満たし」にも深い関心を向ける、いや、まず「お腹の満たし」に関心を向けるのです。P80‐81 我が家にも3人の子供がいますが、親の私にとって我が子の心の健康も体の健康はどちらも重要です。そこに優劣はありません。


また、状況によっては子供たちの心の必要よりも、体の必要を優先させます。子供がどんな心のコンディションであっても食事を与え、服を与えます。病気になれば病院に連れて行きます。 同じように天の父なる神様の関心は私たちの心にだけあるのではなく、私たちの「お腹の満たし」つまり「肉体的な必要や経済的な必要」にもあるのです。心の満たしもお腹の満たしも神様の目に優劣ないのです。 そして、状況によっては、神様は心より「お腹の満たし」を優先されます。なぜなら、私たちに必要があるなら神様は、その「必要の全て」を与えて下さる方だからです。 ピリピ 4:19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。 もちろん、だからと言って神様を信じる人の全てが裕福になるわけではないし、病気の全てを癒してもらえるわけではありません。計り知れない偉大な神様の主権とご計画があります。聖書が語る希望は決して「私たちの願う通りになる」ということではないのです。 しかし、私たちは父なる神様が私たちの「日々の糧」に無関心ではないこと、そして、主ご自身が何よりもそれらを祈って求めてるように教えて下さっていることにちゃんと心を留めたいです。


極端に心の満たしだけを求めたり、また聞き分けの良い子のように肉体的な必要を我慢して黙っている必要はないのです。


主の祈りに教えられている通り、「日ごとの糧」は大胆に祈り求めていいし、祈るべきなのです。 父なる神様は、私たちを「愛する我が子」としてその愛の眼差しを注いでくださいます。その方が私たちの「日ごとの糧」を豊かに豊かに与えて下さる方であることを信じて行きましょう。主は「私たちが神様を賛美し喜んで人生を送っていくために必要なすべてのモノ」を充分に満たして下さる方です。 天にいます私たちの父よ。 御名が聖なるものとされますように。 御国が来ますように。 みこころが天で行われるように、 地でも行われますように。 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。 私たちの負い目をお赦しください。 私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。 私たちを試みにあわせないで、 悪からお救いください。 国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。 アーメン

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