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主の祈り#14 私たちの負い目をお赦しください。


主の祈りシリーズ#14「イエスの心で祈る主の祈り 豊田信行著」に学ぶ マタイ6:12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。 赦しを祈る? 日ごとの糧を求める祈りに続いて、「負い目を赦して下さい。(罪を赦して下さい。)」という祈りが続きますが、この御子にあって私たちは贖い、つまり、罪の赦しを得ているのです。コロサイ1:14とあるように、キリストを信じた私たちの過去・現在・未来の罪は、完全に赦されています。 私たちはこの祈りはどう捉えればいいのでしょうか?

もちろん、「私たちの負い目をお赦しください。」との祈りは、私たちにはまだ赦されていな罪があること示すことでも、罪の徹底的な悔い改めを求める祈りではありません。この祈りは「神様の赦しの業」を生きて行くための祈りと言えます。 私たちは、神様に「罪を赦された者」とされていますが、その赦しをちゃんと受け取って生きているでしょうか?罪をの赦しを信じると言いながら、どこか赦されていな者のように罪責感を抱えながら生きていないでしょうか? また、主の祈りは「私の負い目の赦し」に続いて、「私たちに負い目のある人たちを赦します。」と、私たちも赦しを生きることが出来るようにと祈られています。私たちは、「赦された者」として、「誰かを赦すこと」を生きているでしょうか? 赦されたことと、赦しを生きていることには別物です。 例えれば、7億円の宝くじが当たったとしても、その7億円を口座から引き出して使わなければ、7億円の祝福を生きることは出来ません。同じように、どれほどの赦しの恵みを頂いても、その赦しを実際に用いないなら意味がないのです。 「赦しを生きることを求める。」 そういう意味で「赦し」を求めて祈ることは、私たちにとって重要なことです。 負債の免除 そもそも、私たちは神様の赦しの世界をどれほど理解しているでしょうか? すこし神様の赦しの世界を見てみたいと思います。 古代イスラエルには律法に定められた7年ごとの「免除の年」(レビ25章)がありました。 この免除の年には、誰でも負債の額に関係なくそれまでの負債が全額免除されるのです。 例えば、私が誰かに500万を借入れしていたとしても、7年後にはどれだけ負債額が残っていでも借金はチャラになるのです。 しかも、7年は決められたサイクルで訪れます。ですので、もし6年目に500万を借りたとしたら一年後にはまるまるチャラになるのです。 当然、お金を借りたい人は出来るだけ7年目近くに借りようとするし、貸す方は7年目が近づくにつれ貸さないようにしたり、負債の回収に力を入れます。しかし、そこに対しても律法は、貸主に対して免除の年が近づいているという理由で貸し出しを拒否したり、取り立てを強化することを禁じています。(申命記15:9) 圧倒的に貸し手にとって不利益な制度です。ちょっと現代の私たちには理解できない制度です。そんなことで経済活動が成り立つのか?と疑いたくなります。 しかし、これこそ神様が人に命じられた生き方でした。 そして、この免除の「ありえなさ」こそ神様の赦しをそのものを表しているのです。 私たちはこの「神様のありえない赦しの世界」こそが、私たちの人生に開かれている赦しの世界であることを知っているでしょうか? 赦しを体験する 「免除の年」の目的について豊田師はこのように記しています。

目的は、イスラエルの 民が、具体的な赦しのかたちである、「負債の免除」の実践を通して、「赦しの神」、「負債を免 「除する神」を経験的に知るためでした。神が信仰の父となるアブラハムにひとり子イサクをさ さげることを命じたのも、御子イエスをささげる父なる神の心を経験的に知らせるためでした。赦しは観念的なものではありません。p100‐101 「免除の年」は、貸し手ても借り手も、神様の「ありえない赦し」を実体験することで、神様の赦しを知ることが目的でした。 借り手はありえない「負債から解放の経験」をこの免除の年ごとにしました。そして、貸し手は実際に自分が負債を被ることで、神様が自分の為にどれほどの負債を支払って下さったのかを文字通り身体で体験しました。 「赦しは観念的なものではありません。」とありますが、私たちは「神の赦し」を観念に閉じこめてしまっていることがあります。つまり、頭でしか神様の赦しを理解していないのです。 私たちは本当に赦しを知っていくために、やはり体験的に知っていく必要がります。つまり、私たちも「ありえない赦し」を生きてみる必要があるのです。 現代で7年の免除の年を行うことは難しいかもしれませんが、「私の常識を超えて誰かを赦してみる」ことはチャレンジできます。また、これは簡単には赦されないと思い込んでいる自身の罪に、「主にあってこの罪は免除されている。」と宣言して、もう罪悪感に縛られない決心をしてみる‥など、「神様のありえない免除」を生きることは出来ます。 そして、そのように神の赦しの世界を実際に生きる時に、私たちは神様の赦しをより深く味わいその恵みを生きるようになるのです。 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。と祈りつつ、赦しの世界を生きることを求めるものでありたいと思います。 補足:貸し手になることを恐れるな 私たちは神様の赦しを学びたいと思うのですが、そのありえなさゆえに私たちは「貸し手」になること、つまり免除していく側になることを恐れます。

しかし、本来は貸し手側、免除する側になることこそ、神様の立場に立つことであり、最も「神様の赦し」を体験的に知るのです。言い換えるならば、神様の赦しを知っていくためには、私たちは赦す側に立っていくチャレンジが必要だということです。

また、赦す側に立つこと恐れさせる最も大きな原因は、「私の損失はどうなのるか?」です。つまり、赦すことで行き場を失う怒りや悲しみなど、赦すことで実際に被る被害をどう理解したらよいのか?と悩みむのです。

その点において私たちは心配することはありません。免除の年に立たされた借し手に対して神様は祝福を約束されています。


また、神は「必ず彼に与えなさい。また、与えるとき物 惜しみをしてはならない。 このことのゆえに、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手 のわざを祝福してくださるからである」(申命15・10)と約束しました。別の言い方をすれば、 免除した負債は神が「祝福」というかたちで必ず報いてくださると約束したのです。P101

貸し手になること、赦す側になること、を恐れてはいけません。その責任は主が取って下さるからです。

借り手には大きな祝福がありますが、最終的に貸し手に与えられる祝福は借り手に比べられないものがあります。主は主の前に正しいことを行う者を忘れられません。 天にいます私たちの父よ。 御名が聖なるものとされますように。 御国が来ますように。 みこころが天で行われるように、 地でも行われますように。 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。 私たちの負い目をお赦しください。 私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。 私たちを試みにあわせないで、 悪からお救いください。 国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。 アーメン

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