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主の祈り#15 私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。1


主の祈りシリーズ#15「イエスの心で祈る主の祈り 豊田信行著」に学ぶ マタイ6:12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

「負い目を赦して下さい」との祈りは、「神様の赦し」を生きることを求める祈りです。

また、主の祈りが示しているように、「私たちが神様から赦し受け取ること」と、「私たちが誰かを赦すこと」には密接な関係があります。

「赦す」ことは、赦しの恵みを生きるためにとても重要なことです。ですので、このトピックは数回に分けて学びたいと思います。

罪を責める

マタイ18章23でイエス様は「王がしもべの負債を免除する」たとえを話されています。このたとえは罪の赦しに関しての質問の中でイエス様が答えられたものですので神様の赦しの世界を私たちに教えています。

マタイ18:23‐25 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラント(約6千億円)の負債のある者が、王のところに連れて来られた。彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。

赦しについて語られているこのたとえ話は、まず王がしもべの負債について問う場面から始まります。神様の赦しは、まず「清算の場」から始まります。つまり、貸し手の負債に対する言及から赦しは始まるのです。これは赦しについて私たちが見落としがちなことかと思います。

「赦し」の概念で重要なことは「負債の返済を求めること」、すなわち「罪を責めること」です。「罪を責めること」と「裁くこと」は同じではありません。この二つは混同されがちです。 「罪を責めること」は赦しの前提です。なぜなら、罪に定められることなしに、罪の赦しを受 け取ることはできないからです。

自分は無実だと思い込んでいる人に赦しを伝えても意味はありません。自分は何も悪くないと思っている人に、「あなたを赦します」と宣言すると、「あな たにそんなことを言われる筋合いはない」と反感を買うことになるでしょうp101

罪を裁くことと、責めることが混同されているとありますが、私たちはクリスチャンはよく「人を裁くことはいけない。」と言って、相手の罪について言及することをすっ飛ばして相手を赦すそうとしてしまいます。

それは一見、赦しと愛に溢れている行為にように見えますが実際には逆です。人は罪を責められることなしに、自分の罪の重たさを自覚できません。それゆえに罪を責められることなしに赦しを与えられても、相手は自覚的に赦しを受け取れないのです。

イエス様は罪を赦して下さる方でしたが罪を言及する方でした。とくに律法学者たちや祭司たちの罪を公で責められました。それは彼らが民のリーダーであった以上に、彼らが自分自身の罪に盲目だったからです。罪を問われなければその罪は彼らの無自覚の中に埋もれたままになったでしょう。

旧約においても同じです。預言者たちは神様の憐れみと赦しを語る前に必ずと言っていいほど民の罪を問いただしました。

また、何よりも聖霊ご自身の働きが、まず罪を責めることであり、私たちの内にある罪を教えて下さることです。

ヨハ16:7‐8 わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

赦しの前に罪が責められなくてはなりません。まず罪を責めることは聖霊の働きなのです。

私たちは、誰かを赦すとき、ちゃんとその人と負債ついて語り合っているでしょうか?

罪を責めること、語ること、または責めらること、聴かされることから逃げて、私たちの内側で「赦し」そのものがあやふやなもの、どうでもよいものとなってしまっていないでしょうか?

私達は罪の清算の場から逃げてはいけません。罪に対して、「それは罪だ。」とちゃんと宣言しなければならないのです。

罪を犯している人、無自覚に神様の喜ばれないことをしている人に対して罪を責めることは,

真実を伝えることであり、本来は愛の行為なのです。

もちろん、タイミングや語る言葉には聖霊の知恵の助けがいります。聴く方にも助けがいるでしょう。私たちは聖霊と共に罪を問わなければなりませんし、罪を問われなければいけません。人主導の罪の責めは単に人を傷つけるものとなってしまうからです。


ですからこそ、罪の清算の場には祈りが必要です。

私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。と、赦しを生きることを求めて祈るなかに、神様の赦しに向かって歩みだす力が与えられていくのです。

聖霊により頼みつつ、罪を責めること、罪を正面から語り合うことからから、赦しを始める者でありたいです。

天にいます私たちの父よ。

御名が聖なるものとされますように。

御国が来ますように。

みこころが天で行われるように、 地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

私たちの負い目をお赦しください。

私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

私たちを試みにあわせないで、 悪からお救いください。

国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。

アーメン

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