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主の祈り#16 私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。2


主の祈りシリーズ#16「イエスの心で祈る主の祈り 豊田信行著」に学ぶ マタイ6:12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

マタイ18:23‐25 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラント(約6千億円)の負債のある者が、王のところに連れて来られた。彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。

続けて、「王としもべ」のたとえ話から赦しについて学びたいと思います。

罪の償い

イエス様が罪の赦しについて教えておられる王としもべのたとえ話では、「赦し」は「清算の場:負債を責める」ことから始まります。罪の赦しは、まず罪をちゃんと罪として責めること、つまり、神様に「あなたには負債:罪がある」ということをはっきりと認識させらることから始まります。

また、王はしもべに「その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。」とありますが、罪を責めることは「償い」を求めることです。つまり、その負債による損害を埋めることを求めることです。


罪の実害

赦しについて私たちがまず初めに認識する必要があるのは、罪は単なる心の問題ではないということです。

たとえ話のしもべが、王に対して6千億円の借金があるということは、しもべに対して貸し手である王が実際に6千億円を自分の資産から出している状態なのです。また、しもべがその負債を返せないとなると、王が実際に6千億円を失うというとになるのです。

同じように、私たちが罪を犯すということは、誰かに対して実害が生まれているということなのです。何かを盗めば、誰かが何かを失うということであり、何かを壊せば、誰かの持ち物が壊れるということなのです。

そして、私たちが罪を犯すとき根本的に実害を受けておられる相手は神様ご自身です。

アダムが罪を犯したことによって神様が手塩にかけて創造されたエデンの園の美しさは崩壊し、神様の世界が壊れてしまいました。

同じように、私たちは罪を犯すたびごとに、すべての所有者であり根源である神様ご自身に損害を与えているのです。

私たちが罪を犯すということは根本的には神様が造られた世界を汚し、壊しているということなのです。誰かを傷つけるということは、神様が創造された大切な人を傷つけるということであり、誰かから盗むということは、神様から盗むことと同じなのです。

償いなしに赦しはない

罪があるところには実害があるのです。ですから、罪が赦されるためにはその損害に対して「償い」が必要なのです。「償い」が無視される中に赦しは全うされて行きません。

王は心の中で家来の負債を帳消しにすることはできませ ん。もし王の心の中で負債を帳消しにすることで赦しが成立するなら、神の御子イエスが人の 姿を取って地上に来ることも、十字架に釘付けされることも、死ぬ必要もありませんでした。

血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。(ヘブル9・22)

「血を流す」犠牲が伴わない「罪の赦し」というものはありません。 全能なる神でさえ罪を 帳消しにすることはできないのです。いや、義なる神だからこそ、「罪を帳消し」にすること はできないのです。

主の祈り 102-103

「赦し」には「償い」が必要なのです。償いのない所には完全な赦しは成立しないのです。

だからこそ、神様は私たちの罪の為にご自身の御子イエス様を十字架に架けられたのです。

そして何よりも、私達の罪の償いは「私たちの内」から支払われたのではなく、私たちの為に「神様がご自分の懐」から差し出されたものなのです。


赦しが恵みとなるために

クリスチャンの間で「十字架の恵み、赦しの恵みがいまいちわからないのです。」という声を時々聞きます。良く分かります。私も昔はそうでした。

「赦しの恵みが分からないこと」自体は罪ではありません。むしろ、どの信仰者もそのような所から信仰は出発するものなのです。1万タラント:6千億円の借金と表現されているように、罪の問題はあまりにも深刻、あまりにも大きすぎることなので、正直よく分からないとなるのが普通なことなのです。

しかし、赦しが恵みとなって私達の内側で喜びとなるためには、神様の前でまず「罪の清算の場」を通らないといけないのです。

神の前で自身の「罪」が責められるとき、「償い」を求められるときに、私達は自分が犯した「罪」というモノの自体の重さを知るのです。

そして、それに対して神様が私達の代わりに支払われた御子イエスの十字架という「償い」の重さを知るのです。

聖霊の働きの中で罪の赦しの重みを理解するようになっていくとき、私たちの内で「赦し」が大きな恵みとなっていくのです。

前回と同じ着地点になりますが「清算の場」をスルーしてはいけません。よく分からないと言って軽んじてはいけません。聖霊に導かれてこの罪の清算の場にまずしっかり立つことで、「罪、償い、赦し」を知っていくことが出来るのです。

神様に罪が問われる場、罪の清算の場は、赦しの恵みを受け取って行く入り口なのです。

天にいます私たちの父よ。

御名が聖なるものとされますように。

御国が来ますように。

みこころが天で行われるように、 地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

私たちの負い目をお赦しください。

私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

私たちを試みにあわせないで、 悪からお救いください。

国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。

アーメン

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