主の祈りシリーズ#17「イエスの心で祈る主の祈り 豊田信行著」に学ぶ マタイ6:12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
続けて、イエス様の王と家来のたとえ話(マタイ18:25‐)から、「赦されること、赦すこと」について学びたいと思います。
罪と赦しの重みに対する無自覚さ
マタイ18:25‐27 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
たとえ話の家来は王に対する借金の清算の場で借金の返済を命じられましたが、返済ができませんでした。
すると王は彼に自分の家族を含めた所有物を売って負債を償うことを命じます。ここで王が冷徹な借金取りのように見えますがそうでありません。後に続く王の姿から見てもこの王は「寛大な王」なのです。王はあくまで負債の清算をしているのであり、償いの必要をちゃんと明らかにしているだけなのです。
それに対して家来は王に言います。『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』
読み飛ばしてしまいそうになりますが、ここで家来は借金返済の延長をお願いしています。これはありえないことです。6千億円の借金をもう少し待つぐらいで全てを返せるわけがありません。
(イエス様は市井の人々相手のたとえ話に、「1万タラント:6千億円」という普通ならあり得ない借金の額を話しの設定にしておられます。つまりこのたとえ話はそもそも返済できない巨額な借金の話なのです。)
つまり、王に返済の延長を懇願して何とかしようとしている家来は、自分の負債の重さ深刻さが理解できていないのです。言い換えるなら、必死に努力してもがけば自分の負債は何とか出来ると心の何処かで思っているのです。
反対に王は家来の現実がよく見えています。王は「返済延長を求める家来の姿」を見て、かわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。とあります。家来に返済の可能性が僅かにでもあるなら、王は返済の延長という優しさを与えるでしょう。憐れんで免除したということは「返済は不可能」という判断からのものです。
「負債の免除」とは一円たりとも家来に負債を負わせないということです。王は家来の6千億円の負債を自らが被ったのです。大きすぎる憐み、大きすぎる赦しです…。
しかし、「負債は何とかできる」と思っている家来に王の「憐み」はどれほど届いたでしょうか?きっと感動というよりも、「もうちょっと待ってくれたら何とかできたのに…」と思ったのではないでしょうか?
もちろん、聖書に書かれていないので家来の心の詳細は分かりません。それでも確かなことは彼は自分の負債の重さに無自覚なのです。そして、それゆえに自分に起きた「赦しの出来事」をちゃんと受け止めれていないのです。
前回に学んできた通り、私達にとって罪の清算の場はとても重要です。なぜなら、この場で罪の重さ自覚するからこそ、王の憐れみと赦しの大きさを知ることが出来るようになるかです。
たとえ話の続き見て行くと、「王の憐みと赦し」に対する家来の無理解さが一つの事件を起こしていきます。
赦しを受け取っていない人の姿
マタイ18:28‐30ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
負債を免除された家来が清算の場を後にすると、自分に100デナリ(約100万円)の負債がある仲間に出会いました。すると家来は相手を捕まえて、首を絞め、返済を強く迫りました。挙句の果てに相手の必死の嘆願を聞き入れず、牢屋の中に放り込んでしまいました。
ついさっき6千億円もの負債を免除された人が、自分と全く同じ立場に立たされている人に対してなぜこのようなことが出来るのでしょうか?
答えはたった一つです。この家来はまだ赦しの中にいないのです。もちろん、実際には赦されているのですが彼自身がその赦しを受け取れていないのです。
そして、赦しに無自覚な彼はまだ「負債の世界」の中を生き続けているのです。
彼の相手を牢獄に入れるほどの取り立ての激しさに驚きますが、ここから感じることは彼自身がまだ借金の圧迫の中にあることです。つまり、「お前が俺に100万を返さないで足を引っ張るから、俺が借金を返せなかったじゃないか!」という負債の連鎖の中にいるように感じるのです。
彼自身の中ではまだ負債の問題が終わっていないので、彼自身が「貸し借り」の熾烈さの中をまだ生きているのです。
「罪が赦されること」と、「赦しの愛を生きること」は同じではありません。P109
赦されたことと、赦しを生きることは違います。赦されたのに赦しを受け取ることが出来ていないなら、私達は赦しの恵みの中を生きれないのです。
牢獄に放り込まれる
マタイ18:31‐35彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。
牧師であり、現役の参議院委員である金子道仁師は、政界の中で政治家相手に神様のことを証しされるなかで経験したことをこのように話されていました。
「私は長年クリスチャン相手に話ばかりしていたので改めて驚いているのですが、政界で神様を信じていない人を相手に聖書の話をして強く感じたことは、多くの人が愛されることや、赦されることを知らないというです。彼らの多くは、神様があなたを愛しておられるという話や、神様は無条件で罪を赦して下さるとの話に心から驚かれます。…… 政治家の中には怖い人、厳しい人がとても多いです。結局のところ、彼らは自身が本当に赦されたという経験がないので、赦しや憐れみということが分からないのですね。そして、それゆえに誰かを憐れんで赦すということが出来ないのです。」
赦された経験がない人は、赦しのある世界を知りません。それ故に赦しのある世界なんて綺麗ごと、絵空ごとと言って信じれないし、無条件の赦しを誰かに差し出すこと自体が無理なのです。「赦されたこと」と、「赦すこと」は繋がっていて、切り離せない関係なのです。
そして、赦しに無自覚な人が行きつく先は、牢獄の世界であるということも覚えたいです。
誰かを赦さないということは、自分自身が「負債のつらさ、圧迫、熾烈さ」というつらい牢獄、赦しのない世界に閉じ込められていくのです。
赦さない、赦せないという牢獄を打ち破る方法はたった一つ。「王の赦し:神様の赦し」にまず自分自身がちゃんと向き合うことです。
天にいます私たちの父よ。
御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行われるように、 地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みにあわせないで、 悪からお救いください。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。
アーメン
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