主の祈りシリーズ#18「イエスの心で祈る主の祈り 豊田信行著」に学ぶ
マタイ6:13(欄外注) 国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。
最終回
主の祈りの学びも最終回になりました。
「私たちを試みにあわせないで、 悪からお救いください。」の祈りの後、聖書本文の欄外注において「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」との頌栄(神様の栄光を称える賛美の言葉、歌)の祈りが祈られます。この部分についてはイエス様が祈られた祈りではく、後に教会が追加したものとされます。
頌栄の追加の祈りは、素晴らしい追加です。栄光を神に帰す祈りは、天地を造られた唯一の神様を信じる私たちにとってなくてならない祈りです。
人の堕落の原因
人の堕落の原因は神の栄光を貪ったからです。P130
人が罪に堕落した原因は蛇の誘惑でしたが、誘惑の際に蛇はエバに対して善悪の知識の木の実を食べると「目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となる(創世記3:5)」と言いました。つまり、神と同じようになると誘惑したのです。
それを聞いてエバが禁じられた木の実を見てみると、「 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。(創世記3:6)」とあます。
「目に慕わしく、好ましかった」とは、エバが神のように賢くなることに心が奪われていることを意味しています。
人は本来、「神のかたち:IMAGE OF GOD」に造られました。「神のかたち」とは、その存在の素晴らしさを通して、神様の素晴らしさ:栄光を体現する存在です。尊い存在ですが、神様ありきの存在であり、輝きを反映する存在です。間違っても「神」と同等の存在となるためには造られていません。
神と人には創造者と被造物という明確な境界線があります。
蛇は誘惑によってこの境界線を曖昧にさせ、神様の被造物として栄光を表すのではなく、「神ご自身と同じ」ように栄光を纏うことが出来るとそそのかしたのです。
人の堕落の第一原因は神様の栄光を貪ることです。神様の栄光を自分自身の栄光にしようとすることから罪は始まるのです。
罪の本質
エバは神様と同じように賢くなることに心が奪われます。それ故に、善悪の知識の木の実を「慕わしく」思ったのです。
罪の根本にはこの「慕わしさ」があります。言い換えるなら神以外のものへの崇拝です。
罪の本質は、神の戒め (律法)を破る以上のことです。 D・A・カールソンは、「罪の本質とは偶像崇拝」だと教えています。 エバは神自身よりも、善悪の知識の木を好ましく思い、慕い求め、崇拝したのです。「善悪の知識の木」が偶像となったのです。
あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。(出エジプト20:3)
善悪の知識の木はエバの目に、「食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった」とあります。 この、「良さそう」「慕わしく」 「賢くしてくれそう」という輝きは、神自身に属するものでした。「神のようになろう」とすることは、神自身を慕い求めず、「良い人」「愛される人」 「賢い人」になろうとすることなのです。すなわち、神に栄光を帰すのではなく、自分自身が栄光になろうとすることなのです。P134‐135
私達が人生で味わう全ての良いものは神様から来ます。美しいもの、楽しいこと、やりがいのあること、全てです。私たちは神の恵みの内で生き、努力し、成し遂げ、実を得て行くのです。
しかし、私達が「良いもの」を神様から切り離し、神様ご自身以上のものとして扱い慕っていくとき、それらは「良いもの」ではなく「偶像」になります。
現代での典型例の一つは「仕事」でしょう。仕事は良いものです。経済の祝福や、生きがいを与えてくれます。また、仕事で成功するなら社会的な栄光を受けます。自分は良い者優れた者だとして人々に認めてもらえるようになります。
確かに本気で打ち込める仕事は私たちにとって良いものです。しかし、神様を離れて仕事に打ち込むなら仕事は偶像となります。本来神様から来るはずの祝福を仕事そのものに求めるからです。
偶像崇拝は一時的な繁栄をもたらしますが、その先に待っているのは何かしらの破綻です。
仕事が偶像化されていくと、神様と関係の破綻から始まり、家族との関係の破綻、倫理的感覚の破綻、ミドルエイジクライシス‥など、様々な破綻がその先に待ち受けています。
人生の祝福の源である神様ご自身ではなく、神以外のものを慕い求めて行くとき、私たちは何かしらの偶像を慕っているのです。
神様に栄光を帰す
私たちは自分の人生を生きるときに最も必要な視点は、何よりもまず神様を見つめることです。自分自身の存在と人生の根源である神様を見つめるべきです。そして、「神様の愛によって造られ、恵みの内によって私は生きているのだ」ということを認めるのです。すべての真ん中に神がおられること、それを認めることが「神に栄光を帰す」ということです。
神様に栄光を帰すとき、私たちはすべてのモノごとの真ん中に神様を認めます。そして、そこから神様との関係が生まれるのです。
神様との関係から生み出されていくものは、エデンの園でアダムとエバが味わっていた祝福です。いつも神様の臨在を感じ、与えられた家族の祝福を生き、与えられた仕事に没頭し、弱さを含めた裸の自分を「神の作品」として楽しみます。神様にあって造られた自分の人生を、自分自身が大いに喜べる人生です。
イエス様のように祈る
イエス様は、奇跡が起きる喜びの中にも、十字架に向かっていく悲しみの中にも、父なる神様を見上げ、その中にいつも神様を認めておられました。そして、そのように祈られました。
ルカ10:21 (弟子たちが伝道で奇跡を体験して帰って来た時)ちょうどそのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。」
ルカ 22:42 (ゲッセマネの祈り)「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」
イエス様の祈りは「栄光を父なる神に帰す祈り」でした。
私たちが人生の中で祈る祈りには、人生の様々な出来事が織り込まれています。嬉しいこと、悲しいこと、あらゆる物事の中で私たちは祈るのです。
その度に神様は応えてくれるでしょう。ときには祝福、慰め、癒し、ときには沈黙、戒め、時には予想外の場所へ導きの導きを持って答えて下さるでしょう。
それに対しての私たちの信仰の反応や態度も様々でしょう。ときは神様を喜び、感謝します。あるときには神様の答えに疑問を持ち、あるときには神様の導きを悲しく思います。
それでも私たちは祈りの最後に栄光を神様に帰すのです。あらゆる人生の出来事の真ん中に神様がおられること認めるのです。信頼するのです。
私たちは人生のどのような場面においても、イエス様が教えて下さったように祈るのです。そのときに私たちの人生の歩みはイエス様のように、父なる神の栄光を表す人生とされていきます。
天にいます私たちの父よ。 御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、 地でも行われますように。 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、 悪からお救いください。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン
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