主の祈りシリーズ#2「イエスの心で祈る主の祈り:豊田信行」に学ぶ
マタイ6:7 祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。
前回につづき、「異邦人の祈り」について学びたいと思います。
異邦人の祈りの特徴の一つは「祈りを願いを叶える手段」と考えることです。
異邦人の神観の共通点は「願いを叶える手段」です。偶像は、神として崇められていながら、人間が造ったゆえに、人間の支配の下に置かれています。…イエスが「異邦人の祈り」を真似してはならないと教えたのは、天地創造の神と自分の願いを実現してくれる手段、すなわち「偶像」とみなすようになるからです。6‐7p
私たちは「自分の願い」を祈ります。それ自体は問題ありません。祈りとは私達の願いを神様に届ける声でもあるからです。しかし、願いを届けることは祈りの一部に過ぎません。聖書が私たちに伝える祈りとは神様との「人格的な交わり」であり、神様との会話をすることが主目的です。
しかし、異邦人の祈りの世界では交わりは重要ではありません。霊的な存在にアクセスして「いかに願いを叶えてもらうか?」が祈りの目的です。
例えば、正月に初詣に神社を訪れた人々にインタビューをする映像がTVで流れますが、レポーターの「今日は何をお願いされましたか?」という言葉に、すべての人が家内安全、受験合格などあげて「〇〇をお願いしました。」と応えます。
決して「今日は神様とどんな話をされましたか?」と聞くリポーターもおらず、「今日は祈り中で神様の愛を受け取れました。」と応える人もいません。
これが異邦人の祈りの世界観です。偶像の世界では神様は人格的な交わりの相手ではなく、敬意と奉仕を支払えば願いを叶えてくれる取引先です。そのような神観の中では、祈りは「願いを叶る手段」としか考えられていません。
また、「偶像は人間の支配下に置かれている」と豊田師は指摘しますが、偶像の世界観において人は願いを叶えてくれない神には簡単に背を向けます。
さらに豊田師は童話のテルテル坊主の3番の歌詞に「明日天気にしておくれ それでも曇って泣いたら そなたの首をちょん切るぞ」と歌われていることを指摘しますが、人は神に対して背向けるどころか、何とか願いを叶えさせようと、神様さえ脅し、コントロールしようとします。神をも支配しようとする傲慢の罪の心根が異邦人の祈りの心にはあるのです。
「異邦人のように祈ってはならない。」
イエス様の指摘は、私たちが文化の中で無意識にさらされてきた偶像世界の神観から、正しい神観の中で祈ることの大切さに目を覚まさせてくれます。
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