主の祈りシリーズ#7「イエスの心で祈る主の祈り 豊田信行著」に学ぶ
マタイ6:9 「御名が聖なるものとされますように」
新改訳第三版までは「御名があがめられますよう」というなじみのある訳でしたが、2017年版では「聖なるものとされますように」と改められました。「あがめられますように」の原文は、ギリシャ語の「ハキアゾー:聖別する」なので2017版の方が原語に忠実です。
さて、イエス様が祈られた「御名が聖なるものとされますように」という祈りの言葉はどういう意味なのでしょうか?
最も一般的な聖書解釈だとモーセの十戒、三戒「主の御名をみだりに口にしてはならない。」を土台に、「主の御名を軽々しく口にしない。主の御名を尊ぶ」という意味として受け取ります。
しかし、豊田師はこの一般的な解釈に対して鋭い指摘を語ります。
ユダヤ人はモーセが聞いた「神の名」を軽率に唱えることがないように、「アドナイ(主という意味)」別名を使うようになりました。アドナイという別名なら軽率に口しても、「神の御名をみだりに口にしてはならない」との戒めを破ることにはならないと考えたのです。その考えこそ軽薄です。その結果、モーセが聞いた神の名の正しい発音は失われるとになりました。P37
ユダヤ人たちが主の御名を畏れるあまり、「YHWHヤハウェ」という主の名を口することを過度に禁じ、正しい発音を失ったことは有名です。(いまでも正確な主の名の発音は分からないままです。)そこには純粋な主に対しての畏れがあった半面、豊田師が指摘するように歪んだ律法主義による弊害が大切な「主の名の呼び方」をという忘れさせるという面があったこともまた事実です。
このような指摘に耳を留めると、「御名が聖なるものとされますように」という祈りのことばは、単純に「主の御名を尊べ、みだりに主の名を扱うな」ということを私たちに伝えているのではなく、もっと御名に関しての大切な面を私たちに伝えようとしているのではないかと思わされます。
そもそも、神様がご自身の名前を明かされた経緯は、モーセが召命の受けた際に神様に名を尋ねたことよります。
出3:13 モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」
モーセは自分が父祖の神に出会い、遣わされて来たことを人々に証明するために神の名を訪ねました。
それに対して、神様はモーセを遣わしたご自分が、エジプトで拝まれている偶像の神々とは全く別の神であり、彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブの神であることを、人々が知ることができるようにとご自身の名をモーセに明かされました。
出3:14‐15 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」 神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。
つまり、「主の名」はそもそも一部の人にコソッと教えられ、公には秘密にするものとして明かされたのではなく、モーセを始めイスラエルの人々が、自分たちの神様を正しく知るために明かされたのです。ですので、むしろ、「神の御名」は隠されるのではく、人々の間で神様が正しく呼ばれるため、神様を認識するためにあるのです。
また、「御名が聖なるものとされますように」という言葉には、御名を聖別するという意味であることに触れましたが、それは神様が偶像の神々と別の存在、「唯一の神、真の神」として覚えれますようにとの意味であるということです。
ですので、「御名が聖なるものとされますように」という祈りは、単純に主を畏れるということではなく、主がこの世界の神々と呼ばれる存在とは全く違う「唯一の偉大な神」として私たち中で覚えられ、尊ばれていくて行くことを願う祈りなのです。
続く
天にいます私たちの父よ。
御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行われるように、 地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みにあわせないで、 悪からお救いください。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。
アーメン
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