主の祈りシリーズ#7「イエスの心で祈る主の祈り 豊田信行著」に学ぶ
マタイ6:9 「御名が聖なるものとされますように」
「御名が聖なるものとされますように」という祈りは、偶像が溢れる世界において私たちが「真の神」を「偶像の神々」と混同せず、聖別して神様を覚えるための祈りです。(聖別の本来の意味は、世のものと分ける、別にするという意味です。)
(御名が聖なるものとされますように)この祈りはすべてのキリスト者の祈りなのですが、多神教の国、日本で生きるキリスト者にとっては切実な祈りなのではないでしょうか。物心ついたころから神々の影響を受けた人がイエスを救い主と信じたとき、その人の神観、神のイメージには神々のイメージが幾重にも重なっているはずです。「罰を与える神」「因果応報の神」というイメージは代表例です。P42
私たちが生きている世界は偽の神々が溢れている世界です。特に八百万の神々が文化の中に根付いている日本においては、出生がクリスチャン家庭であろうと、なかろうと、少なからず偶像が支配する世界の影響を中で受けて生きているものです。特に神観:神様のイメージは、誰もが少なからず偶像に影響を受けています。
私自身も牧師家庭に生まれ、教会の中で育ったのにも関わらず、20代半ばまで心の根底に「神様は、罪を犯した者には必ず罰を与える」という恐ろしい神観が根付いていました。
つまり、お供え物を忘れると怒り狂う氏神、墓参りを忘れると祟る先祖、掃除を忘れると祝福してくれないトイレの神、と言った日本の神々の姿を、自分の信じている聖書の神様に重ねて理解してしまっていたのです。
もちろん、偶像礼拝をしたことなどありません。家庭にしても、教会にしても、偶像に妥協するような雰囲気は全くありませんでした。それでも、偶像のイメージという影響は社会の文化を通して無意識に流れ込んでくるものなのです。
歪んだ神観を持っていた当時の信仰生活を思い返すととてもつらいです。当時、私は神様を根底で恐ろしい方と信じていたので、口ではキリスト者らしく「神様は良い方です!感謝です!」と言いながらも、信仰生活は喜んで自発的に従うものではなく、「離れると罰せられる」という恐怖から従うものでした。
主を信じることと従うことは、祝福ではなく呪いのようでした。
しかし、26歳で福音に目が開かれ、十字架を知り、神様が罰する神である以上に「赦す神」であること、仕えることを求める神である以上に「私たちに仕えて与えつくして下さる神」であることを知りました。
福音によって本当の神様の姿が私の人生の中に入って来たとき、神様はどの神々とも全く違う方、すべてのものと一線を期した偉大な神、恵みの神として私の中で輝きはじめました。
それからは信仰生活の根本が一変しました。神様が良い方であることを知ると、神様と共に生きることが本当に喜びになりました。神を信頼することや、従うことは、しなければならないことではなく、したいことになりました。
信仰が呪いではなく、まさにみことばあるように祝福となることを体験しました。
「御名が聖なるものとされますように」
この祈りは、真の神様を聖別して見上げることにより、偶像によって歪んだ神様のイメージから私たちを解放し、私たちに聖書が示す素晴らしい唯一の神様の姿を見上げさせてくれる祈りなのです。
ミカ 7:18 あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは咎を除き、ご自分のゆずりである残りの者のために、背きを見過ごしてくださる神。いつまでも怒り続けることはありません。神は、恵みを喜ばれるからです。
天にいます私たちの父よ。
御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行われるように、 地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みにあわせないで、 悪からお救いください。
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。
アーメン
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