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主の祈り#9 御国が来ますように


マタイ6:10 「御国が来ますように。」


御国:神の支配

「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。」という主の祈りの冒頭を学んできました。これまでの学びを一言でまとめるなら「正しい神観を持って祈ることの大切さ」と言えることができます。

神様を「比類なき良き父なる神」と見上げつつ、次に主の祈りが私たちに教えることは、祈りの中でまず最初に私たちが願うべき「願い」についてです。

私たちには日々の必要の中で様々な必要と願いがありますが、「御国が来ますように。」この祈りこそ私達が願うべき第一の願いです。


聖書の中において「御国:KINGDOM」とは神の支配のこと意味します。


例えば、悪い統治者が国を治めると、その歪んだ支配(国政)によって人々は不安な生活を強いられ、国土は荒れ果てて行きます。戦争だって起きてしまいます。しかし、良い統治者が国を治めると、人々は平和に過ごし、国土は豊かになります。

同じように、私たちの世界に、そして私たちの生活に、良い統治者である神様の支配が訪れることを願うこと、それが「御国が来ますように」という願いです。


この願いは私たちの大局的、包括的な願いです。


私たちは誰もが金銭に思い煩い、人間関係に傷つき、習慣的な罪の問題に翻弄され、病に苦しみますが、これらの問題の根源には罪による「神様との関係の喪失」があると聖書は語ります。

つまり、私たちは罪によって神の支配を失い(拒否し)、自分勝手な支配、または「この世の君」と呼ばれるサタンの支配の中に落ち込んでしまったのです。ですので、「神の支配」が回復されることが私たちの人生の諸問題の根本的かつ最終的な解決となるのです。


私たちの最優先は何か?


マタイ6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。

神の国を「まず求めなさい。」というイエス様の教えには、私たちの第一の願いがいつも「神の国でないこと」を教えられます。


私たちは「意図的」に神の国を最優先に求めて行く必要があります。

キリスト者の心に神の国、神の支配が訪れるとは、神が第一の場(最優先)を占めることです。…世界で最も巨大な宗教は、「自分教」です。心の第一の場を自分で占めている人たちは、神に仕えることは出来ません。P59

私たちがなによりもまず神の国を求めないことの原因は、私たちの心の第一の場が「神」でなく「自分」に占められていることです。

ルカ9章では、イエス様がある人に「わたしに従ってきなさい」と命じられましたが、その人は「まず父を葬ることをお許し下さい」と願いました。


「父を葬ることをお許し下さい」とは、葬式をする許可を得ているのでなく「父が亡くなるまでは父に仕えさせてください。」という意味です。そして、「それらのことが終わり次第あなたをすぐ追いかけます。」という意味です。

一見この人の言葉には主に従いたいという願いと共に、家族を想う暖かい気持ちや、親の面倒を見るという世間一般の常識良識が見えます。


しかし、この箇所において聖書が伝えているものはイエス様の「従ってきなさい。」という命令:支配よりも、自分の願いや家族の願いを優先させている彼の心です。

「父を葬らせてください」と主に語った彼の姿は私たちの自身の姿でもあります。

「洗礼を受けたいのですが、家族の反対があるのでもうちょっと待ってください。」

「礼拝に行きたいのですが、時間がないのでもう少し待ってください。」

「什一献金を捧げたいのですが、今月は厳しいのでちょっと待ってください。」

「福音を伝えたいのですが、今はタイミングが悪いのでまた今度にします。」

例を挙げればキリがありませんが、「わたしに従ってきなさい。」との主の命令に対して、この世の常識や良識といったものでカモフラージュしながら「従うこと」を後回しにして、自分の願いを最優先としていきます。

人が何を神として崇めているのかは、その人が何を人生で最優先させているかを見極めれば分かります。別の言い方をすれば、誰を平気で待たせることができるのかを、自分の心に問いかけるのです。P60

結局のところ、私たちは誰を待たせ、誰を最優先しているかによって、誰を神とし、誰の支配下に自分の人生を置ているのかが明らかにされているのです。



神の支配を求める祈り

「御国が来ますように」と祈るとは、神の国、神の支配が心の第一の場を占めることを願う祈りです。P61

神の国の到来を願いつつ、結局のところは「私の国」を切に求め、自分の支配の中で自分の思う通りに人生が回ることを切に求めているのです。それが私たちの罪人の側面であり、私たちの弱さです。

だからこそ、私たちは主が教えて下さったように何よりもまず「御国が来ますように」と祈るのです。恵みによって救われてはいるが、いまだ罪の性質の支配下の中にある私自身に、「良き父なる神の支配」が訪れるように祈るです。


生活の諸問題のために祈ることも大切ですが、まず何よりも私自身が「私の支配」から解放され、「神の支配、御霊の支配」の中に置かれることを祈り求めることなしに人生の根本的な問題解決はありえないのです。


そして、祈りの中で聖霊に助けられながら、私の支配から神の支配へ、私の統治から神の統治へと、支配権が置き換えられていくところに神の恵みの世界が広がっていくのです。そこにあるのは、私たちの人生を本当に豊かにしてくれる「いのち」が満ち溢れている世界であり、私たちが本当に願い求めていた人生がある世界です。

マタイ16:25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。

天にいます私たちの父よ。

御名が聖なるものとされますように。

御国が来ますように。

みこころが天で行われるように、 地でも行われますように。

私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

私たちの負い目をお赦しください。

私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。

私たちを試みにあわせないで、 悪からお救いください。

国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。

アーメン

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