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主の祈り#5 天にいます私たちの父よ2

更新日:2023年2月14日


マタイ6:9 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。「天います私たちの父よ」

主の祈りは「父よ」という呼びかけ言葉で始まっています。つまり、イエス様は私たちに神様を自分の「父」として呼びかけていきなさいと教えておられるのです。また、「父」と呼びかけることは、私たちが「子」であることを教えるものでもあります。

プロテスタント神学の救済論、救い論において、「子とされること」はあまり強調されてきませんでした。救済論において、イエス・キリストを救い主として信じ、「義とされること」、「罪の赦し」が救いの本質と教えられてきました。神の目に義とされることは救いに不可欠ですが、神との親密さを与えるものでありません。神との親密さは「子とされていること」、父と子の関係性にことからもたらされるのです。P24


私たちプロテスタント教会は出発点となる宗教改革の出来事以来、福音の中心に「義認」を置いて来ました。つまり、十字架による罪の贖いとその結果としての永遠の命の約束です。

プロテスタント教会では、義認の恵みを教えるために礼拝メッセージや信仰書の中で裁判の場面が語られるときがあります。


神様が裁判官、イエス様が弁護人、そして私たちが罪を犯した被告人という画です。

罪人の私たちが裁判官なる神様の前で罪に問われますが、弁護人イエス様が私たちを弁護し、最終的には「この被告人の罪をわたしが引き受けます。」と言って下さいます。そして、その弁護人イエス様の犠牲を見て、裁判官なる神様が罪が被告人にないことを認めてる判決されるのです。

このようなたとえ話は「罪の赦し、義とされること」を分かりやすく教えている反面、神様が「父」ではなく裁判官であるイメージを私たちの心に深く刻み付けます。

神様が「正しい裁判官」であるというイメージは神学的には間違っていませんが、神様は罪人に厳しい冷徹な方としてのイメージを私たちに抱かせます。なぜなら、この世において良い裁判官とは感情に流されず、淡々と法の正しさに則りながら判決を下す人物だからです。

私たちが神様を裁判官のような方として見上げているなら、神様は「正しい方だが、近づきがたい。いつも私たちの罪に目を光らせている。」という思いに囚われ、祈りはおどおどとした恐れに満ちたものとなってしまいます。当然、そのような祈りは良い方向へと向かっては行きません。

イエス様が福音書を通して明らかにされておられる神様の姿は、裁判官である以上に「父である神」の姿です。

ルカ15:20 ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

放蕩息子の例えの中でイエス様は、神様を「父」として説き明かされました。しかも、その「父」は私たちの知る裁判官とは正反対の資質に満ちている父でした。

弟息子が父に対して愚かにも「財産をよこせ!」と迫ると、間違っていることだと分かっていても、豊かに与えてしまう父、与えずにおられない父の姿がそこにはあります。

また、息子が罪の世界からボロボロになって帰ってきても、「お前が間違っていただろう!」と正否を裁くのではなく、ただただ抱きしめて息子の帰還を喜びます。

そして、弟息子に「けじめ」をつけさせることなどすっ飛ばして盛大な「お帰りパーティー」を開いてしまいます。

そんな喜びを爆発させる父の姿に兄息子は「罪を犯した弟に対してやり過ぎだ!」と父に対して怒りを爆発させます。つまり、まわりがやり過ぎだと感じるほど愚かな息子を愛する父なのです。

このような父なる神様の姿は、裁判官とはまるで反対のイメージです。冷徹・無表情ような神ではなく、とても感情的:エモーショナルな神です。そして、法規順守的な神ではなく、超法規的な行いをされる神です。(正しさを超えて愛を選ぶような方です。)

確かに神様は「正しく世を裁かれる方」です。正義を愛される裁判官としての神様の姿は、偉大な神様のご性質の一部です。しかし、神様は裁判官である以上に「父」なのです。

つまり、私たちの「罪と不正」の現実を単純に裁くのではなく、ご自分の御子を犠牲にするという方法、ご自分が犠牲になるという超法規的な方法で、結局はどうしようない罪人である私たちを救ってしまう「愛の父」なのです。

私たちが祈りで呼びかけているのは「冷徹で無表情な裁判官」のような神でありません。私たちの祈りの声に駆け寄ってきて耳を傾けられるような「父なる神様」なのです。私たちは祈りの中で神様を「父」として呼びかけているでしょうか?

また、私たちはこの方に「愛される子」と呼ばれる恵みをいただいていることを信じているでしょうか?「神様を父と呼び、神様に子と呼ばれる」そのような親密な関係をいただいていることを信じているでしょうか?

ロマ8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

神様を呼びかける心が私たちの祈りを変えていきます。

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