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価値を知る


Ⅰコリント3:16‐17 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。

ソロモンが20年の歳月をかけて完成させた神殿は非常に荘厳で美しいものでした。金や銀をはじめレバノン杉などの最高の建材が惜しげもなく使われ、国内外から集められた最高の職人たちがそれらを建てあげました。


神の神殿とは高価で価値のあるものです。建材一つ一つの価値は当然のことを、神ご自身の住まいという建物の目的に至るまで至上の価値を有しています。そのような神殿に対して、万が一にも外国から来た誰かがソロモンの神殿を見たときに「何だこんな建物。」といって神殿に唾を吐きかけたとしたら、その人は罰せられる以上に「なんというモノの価値が分からない愚か者なのか…。」とあきれられてしまうことでしょう。

しかし、コリント教会に宛てられたパウロの言葉を読むとき、神殿の価値を分かってない愚かさを私達が生きていることに気づかされます。パウロは指導者の質を比べて派閥を作ったり、賜物の質でお互いに優劣をつけたりと、そのように自分達を評価し合っているコリント教会の人々に対して、聖霊が内在されるあなたがたは神の神殿であり、お互いに計り知れない価値ある損存在なのだと教えました。そして、聖なる神殿である誰かを勝手に傷つけたり、壊したりするの行為は神様ご自身が決して許さないことを教えました。


パウロの言葉に耳が痛みます。私もコリント教会と同じように自分の上にいる指導者をその能力や功績で判断し、心の中である人を尊敬し、ある人を軽んじてしまいます。また身近な人に対しても、賜物という表面的な資質でその人の価値を判断しがちです。そして、蔑んだ言葉や視線をどんなに隠していてもときどきポロっとこぼれて人を傷つけます。何年たってもそんなことを繰り返しながら生きています。神殿である人の価値を見余って人を粗末に扱う愚かさを生きているのです。

なぜ、そうなってしまうのでしょうか?それは根本的に隣人の価値が分かっていないからです。みことばが教える人の本当の価値に盲目なのです。隣人が私の目にどのように見えていたとしても、みことばが教える通りにその人は聖霊が内在する神の神殿です。人をお造りになられた方、人の専門家である神様がその人を愛され、望まれ、選ばれて、その人の内側に住んでおられるのです。その神さまの選眼に、誰が文句をつけて反対のことを主張できるでしょうか。

また、その人が「神の神殿」となるためにかけられたコストは莫大なものです。金や銀がその人ために支払われたのではありません。神の御子の血がその人を手に入れるために惜しげもなく支払われました。神の御子のいのちをもって買い取られたこと、これ以上にその人の価値を証明するものはありません。

「みことばが語るその人の価値に教えられていく。」それが人を見余って生きる世界から抜け出す唯一の道です。私達は感覚や好みだけでは絶対に正しい価値観を持つことが出来ません。高価な美術品の価値を本当に知るには専門家の助けが必要なように、本当の価値を知るには正しい知識が必要なのです。同じように、隣人の本当の価値を知るには人を造られた神のみことばに助けられてなくてはならないのです。そして、教えられた正しい価値観を自分の基準とするときに、隣人を価値のある存在として正しい向き合い方をすることが出来るのです。

また、隣人だけでなく、自分自身も価値のある神の宮であることにも気づかされたいです。

ローマ14:15

もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。

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