使徒15:38 しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者(マルコ)はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。
誰の人生にも大切な出会いがありますが、出会いの中には素晴らしい出会いもあれば、はじめはマイナスとしか思えない出会いもあります。
私の場合、神学校で出会った師は信仰の基礎を据えて下さった恩師であり、そこで出会った同級生は今でも本音を分かち合い励まし合える貴重な友人たちです。しかし、わずかですが、同じ神学校で全く考え方が合わない人々とも出会いました。正直に言うなら私からすれば出来るなら決して出会いたくなかった人たちです。
しかし、寮の中でその人たちと生活を共にすることで、結果的に彼らは私を磨いてくれました。私はその人々を通して、愛し難い人を愛すること、受け入れがたい人を受け入れること、仕えたくない人に仕えること、へりくだりたくない人にへりくだることを教えられました。
もちろん、これはあくまで私側の主観です。相手からすれば私こそ出会いたくなかった人だったと思います。実際に私は相手方に大いにご迷惑をおかけしたし、心労を与えてしまったとも思っています。お互い様ってやつです。
人生の中における人との出会いは基本的に神様からの賜物:プレゼントです。
ウィリアム・ウィリモンは教会におけるリーダーシップについて、「キリスト教のリーダーシップは賜物であって、それゆえに教会は手を置いて祈るのだが(使徒6:6)それは、そのリーダーシップが教会共同体に対する神の変わることのない恵みの結果であることを示すしるしである。(ウィリアム・ウィリモン/牧師より)」と語っています。
つまり、自分の上に置かれた教会のリーダーはたとえ自分と合わない人でも基本的には神の賜物なのだということです。ウィリモンの言葉の解釈を広げるなら、賜物として与えられるのは牧師などのリーダーシップだけではなく、神の家族として教会の中で出会う全ての人だと言えます。
私たちは親兄弟という家族を自分で選択したのではなく神様に与えられました。同じように「神の家族」も当然お互いが与えられた存在です。ですから、教会の中で私たちは「私が選んだ人々」としてではなく、「神が選んで下さった恵みの賜物」としてお互いに出会っているのです。
また、出会った人を神の賜物として受け止めていくには時間がかかることもあります。パウロは一回目の宣教旅行でマルコを自分の宣教の働きにとって役に立たないと判断し、彼を宣教チームから外しました。しかし、何年も後にパウロはマルコを「彼は私の務めのために役に立つ…。Ⅱテモテ4:11」とマルコが自分のもとを訪ねてくれることを懇願しました。
始めパウロはマルコが嫌いでした。マルコの宣教旅行の態度を見て受け入れがたいと感じていました。しかし、何年もたってお互いが成長する中で、パウロはマルコを自分の人生に役に立つ神からの賜物として心から感謝して喜べることが出来るようになったのです。
当初パウロはマルコを「役に立たない」と早急に判断してしまいましたが、同じ場所に置かれた人々に対しての評価を急がないことは大切です。
現在、日本の若い世代は「コストパフォーマンス」を非常に重要視すると聞きました。ドラマを倍速で視聴したり、無駄と思える時間や行動を限りなく略するそうです。そのような心根には長く続く不況の中で、多く人が何か得ている益を実感が持てず、これ以上少しでも損をしたくないという心理が働いているとのことです。
そして、コスパ重視の価値観は当然人間関係にも反映されます。「この人は自分にとって損か得か。」が、相手と付き合う基準の重要度を占めていくようになります。そして、判断する時間も限りなく略されていきます。
このような価値観が加速する文化の中では、相手を長い時間をかけて見つめていく視点はどんどん失われていくのではないでしょうか。いま私達教会はそのような文化の時代に生きていることを心に留めたいと思います。
そして、お互いの存在をコスパではなく神の賜物として信じ、喜びと、時には忍耐を持って受け止め合う愛の姿勢を世に示して行きたいと思います。
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