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孤児にはしません


ヨハネ14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。


30代前半のころ、半年間工場にアルバイトに行ったことがありました。入ったばかりの私に歳の近い上司が仕事を一から教えてくれていたのですが、会社の都合で一か月もしないうちにその上司は別の場所に移動することになり、彼は私にこう言いました。「菅原さん、明日から一人ね。よろしく!」


まだ作業さえ覚えていないのに強制的に独り立ちを宣言され、私はひどく困惑しました。そして案の定、次の日から地獄の日々が始まりました。出来ない作業や、教えられていない作業を一人でさせられ、失敗すれば怒られるという理不尽な状態の中に放り込まれました。


今振り返るとその会社はちょっとブラック、いや控えめに言っても結構ブラックな体質の会社でした。おかげで会社にいる間に体重は5キロ近く減りました。そんな場所でよく半年も頑張ったなと自分をほめてあげたい気分です。


とにかく、私がある日突然上司を失ったように、指導や保護をしてくれる人を失うことは、孤児になり路頭に迷うような出来事なのです。


最後の晩餐の席で弟子たちも同じ気分を味わっていました。自分達の教師でありリーダーであるイエス様が突然「わたしは去ります。」と語られたからです。弟子たちは「主よ、どこに行くのですか?」と不安を口々にしました。彼らは主の死の予告を信じられず、イエス様が自分達を放って何処かに行ってしまわれると思ったのです。


しかし、イエス様は弟子たちの不安な表情を見つめながら、「あなたがを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」と語られました。


そのみことばの通り、イエス様は翌日に十字架に架かられ一時的に去って行かれましたが、死からの復活、そして後の聖霊の内住という形をもって「わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。」という約束を果たされ、弟子たちを孤児にはされませんでした。


教育学者であり改革派の牧師でもある吉岡良昌師は、著書の中で「神は継続的教育者である」と語ります。

「神は生みっぱなしではなく、生んだものを育て、養育する神でもあることを明記しなければならない。 すなわち、 信仰を生み出し、その信仰が成長するように神は教育するということである。…信仰によって神から義と認められたものは、その後も継続して神の霊の力を受け続け、聖化され、神が完全であられるように完全な神の子となるまで、神は働き続けてくださると信じることができる。このように神の人間への働きかけは原則として継続的であり、人間の側の反抗がなければ、 最終的目的遂行に至るまで続行し、途中で放棄されることはあり得ない。 キリスト教人格教育論/吉岡良昌」


神様は信仰者を生み出すだけではなく、その後も継続して関わり続けて育てて下さる方なのです。神様はしばらくすると「君、あとは自分で頑張りなさい。」みたいな、そんな無責任なことはなされません。


もちろん、ある人生の中の状況によっては、神様に放り出され、無視され、孤児にされたように感じる時がありますが、それは私たちに対する訓練のための放牧や沈黙であり、根本的に神様が私達への責任を放棄なさることは絶対にありえません。神様は継続的に絶え間なく私達を導き、教え、保護し続けて下さる方であり、私達を孤児にはされない方なのです。


17世紀の教育学者コメニウスは、若者たちに絶え間なく教え導いて下さる神を覚えてこのように祈るよう教えました。私たちもこの祈りを祈り続ける者でありたいと思います。


主よ、私が知らないでいるたびごとにあなたは私を教育し、誤るたびごとに引き戻し、罪を犯すたびごとに矯正し、倒れるたびごとに立ち上がらせ、進むたびごとに方向づけ、立つたびごとに支え、作業するたびごとに援助し、危険に陥るごとに保護し、背く度ごとに贖い、難儀する度ごとに生気を与えてくださいます。 


コメニウス/若年期学校での祈り

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