Ⅱコリント12:9 私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
超高齢化社会を迎えた日本。現在、多くの家庭が高齢者の介護に直面しています。実際の介護はその大変さゆえに多くの問題が起きたり、ときには悲しい事件が起こりニュースになったりもしますが、先日、とても素敵な介護の言葉をお聞きしました。
その方は90歳を超えた母親を介護されていますが、立ち話の中で介護についてこうお話しされました。「母の介護は大変だけれども、育ててくれた母親に恩返しをする機会をもらったようで嬉しくもあります。」
会話を要約しながら換言すると、「もし、母が早くに亡くなったり、または現在も自分で何でも出来てしまうなら、きっと私は一生母親に孝行することは出来なかったと思う。母が弱ったことによって、自分が母に何かをしてあげられる機会を得ることが出来た。」ということでした。
お話を聞きながら、人が「弱くなる」ということは、「側にいる人に対して自分に関わる機会を与える」ということでもあるのだと教えられました。
人は基本的に弱さを嫌いますが、弱さは欠点ではなく大切な機能です。人は「強い」(または強いと思い込んでいる)と外部からの助けを必要としませんが、「弱い」と人に支えてもらう必要があるので外に向かって自分を開くようになります。
最初の人アダムに助け手が必要な弱さがあったように、「弱さ」とは自分以外の存在と深く関わっていくために与えられている重要な機能なのです。
そして、私たちが「弱さ」を通して最も開かれていくのは神様との関係です。パウロは「私は弱さを誇る」と語りましたが、その理由は「自分の弱さの内にキリストの力が完全に現れる」としています。
つまり、「弱さ」は、そばにおられる神様に向かって積極的に自分を開いていく心となり、神様が自身の人生に働いて下さるスペースとなっていくということです。
まさにパウロの言う通り私たちは強さでなく「弱さを誇る」べきです。神様が助けて下さらないとやっていけない「弱さ」が与えられているからこそ、神様に向かって自分を開き、神様に深く関わっていけるのです。
また、「弱さ」はイエス様の姿にも見られるものです。イエス様は天地を創造された力ある神であるのにも関わらず、この地上に人となって降りて来られたとき「弱さ」を纏って来られました。その理由のひとつをナウエンはこう語ります。
「神は十字架を背負って倒れたほど、足元のふらつく神になられました。そのお方が私たちのために死に、愛を最も必要となさいました。神がそうして下さったからこそ、私たちは近づくことが出来るのです。私たちを愛して下さる神は、もろさを身に帯び、飼い葉おけに身をゆだね、十字架に架けられたほどの神です。「そこにいてくれませんか」と、本音で私たちに語りかけるほどの神なのです。 ヘンリ・ナウエン/ナウエンと読む福音書」
イエス様が人の弱さを纏って下さったので、人は驚くほど神に近づくことが出来き、隣人と心を通わせるように神と心を通わせることが出来ました。それだけではなく、人が神であるイエス様をお世話したり、気遣ったり、ゲッセマネで主のために祈ったりすることさえ出来ました。
つまり、イエス様は弱さを纏うことによって私たち人と深い愛の関係を開いて下さったのです。神が人を愛するだけではなく、人も神を愛することの出来る関係です。それは当たり前ではなく、主の弱さがあったからこそ開かれている関係なのです。
イエス様が「強い神」だけの方であったなら、イエス様は私たちにとって遠い存在だったと思います。近づきがたく畏怖を持つだけの存在だったと思います。しかし、イエス様が弱さを纏って下さったので、私たちは力ある神を身近に感じ、主を愛することが出来るのです。
聖書の語る「弱さ」の世界は深遠です。そして驚きに満ちています。「弱さ」を嫌うのでなく、ますます「弱さ」を用いられる主の姿に目が開かれて行きたいと願います。
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