ヨナ1:3 しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。
アメリカの神学校でのお話です。神学生たちが卒業後の進路について話し合う中で、テキサスで生まれ育った女性がみんなにこう言ったそうです。「私、神様が望まれるならところだったら、どこにでも行くつもりよ。ただし、そこがテキサス州である限りはね!」…。
ジョーク交じりの言葉ですが、彼女の言葉は多くの人の従順を表していると思います。私たちは「主に従います!」と宣言しつつ、心の内では従順の範囲を勝手に限定しているのではないでしょうか?
ヨナもそうでした。彼はベテランの預言者で、イスラエルに対して忠実に主の言葉を語り活躍していました。しかし、ある日、主に「ニネベ(イスラエルの敵国)に言って預言をしなさい。」と命じられると、ヨナは主の御顔を避けて逃げて行ってしまいました。彼の従順は「主よ。イスラエルの中でならどこにでも行きます。でも憎きニネベに遣わされるなんてごめんです。」という限定的なものでした。
ヨナの姿を見るとき、私たちの従順が最も試されるのは「私たちの想定外の従順」を告げられた時だということが分かります。「私の願いとは真逆の方向へ、私の常識の外にある事柄へ、私が好まない人々の下へ行け。」と告げられるとき、私たちの従順という信仰が試されているのです。
「従順さより完璧な信仰はありません。従順は信仰の頂点です。ハ・ヨンジョ」
ハ師の言葉は核心をついています。従順は最高の信仰です。「主のお言葉なら、そう致します。」という従順の姿は、主を信頼しきった人の姿です。
それはゲッセマネのイエス様の姿でもありました。罪の杯を「飲めない」と苦悩しつつも、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。マタイ26:39」と、主の御心に従って行かれました。
イエス様はメシヤとしての人生の要所、十字架の苦悩の中を「従順の信仰」で生きられました。そして、そのイエス様の従順の先に、誰も思い知らなかった赦しの世界、恵みの世界が開かれて行きました。
神の国という祝福は、私の願いを捨て、主に従順に従っていくところに開かれるのです。
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