エペソ 2:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
しばらく「恵み」について書いてみたいと思います。とても大切なテーマです。深いテーマです。これまで何度か書き始めてみたもののうまく書けませんでした。それでも私の内には何とか恵みを分かち合いたいという渇きが消えません。どのようにまとまるか分かりませんが、主に委ねながら始めてみたいと思います。
「恵み」を思い巡らすとき、どうでしても自分の話から始めることが良いように思います。論理のお話ではなく、もう一度、自分の人生に訪れた恵みから書き始めてみたいと思います。
いつも泣いている人
昔、私の父は京都で牧会をしていました。教会の立地が京大と京都芸大の間にあるため、当時教会には沢山の若い人が通っていました。その中に私の記憶に残っている一人の若いクリスチャンの方がおられます。彼女は熱心に教会に通い、祈り会に参加しておられました。子供の私から見てもとてもまじめな信仰の人でした。
しかし、まじめであると同時に彼女はいつも泣いる人でもありました。礼拝で泣き、祈り会で泣き、集会が終わっても教会のどこかの部屋で泣いて祈っておられました。
あるとき、祈りながら泣き続ける彼女に、教会の誰かが諭すように声をかけたのが小学生の私の耳に聞こえてきました。
「○○ちゃん、あなたはイエス様のために熱心に色々しようとしているけれども、イエス様があなたにして下さることの方が大切やねんで…。」
子供の私にはその会話が聞こえただけで意味は全く分かりませんでした。でも、大人になってその時の会話の意味が良く分かるようになってきました。
私もいつも泣いている信仰者でした
私は26歳のときに「福音」に出会いましたが、それまでの私の信仰生活はとても苦しいものでした。
生まれた時からクリスチャンでしたが、成人を迎える頃には日々自分が犯す罪の罪悪感に苛まれる喜びのない信仰生活を送っていました。
20代前半の私は礼拝に行くたびに、「神様、ごめんなさい。今週も沢山の罪を犯しました。先週の礼拝でもうやめるって誓ったあのことも、またやってしまいました。神様、あなたが喜ばれる生き方が出来ません。頑張っているんですがダメなんです。失望させてすいません。今週はもっと頑張ってみますから、どうぞ神の怒りを下さないでもうちょっと待てって下さい。お願いします。イエス様の御名によって祈ります。アーメン」そんな祈りを心の中で繰り返していました。
実際に涙することは少なかったですが、私も心の中ではいつも泣いている信仰者でした。
十字架の恵みとの出会い
そんな信仰生活を送る私に、ある日、恩師である大田裕作師(元KBI学院長)のメッセージの言葉を通して十字架の光が差し込みました。
「あなたの罪はどこにあるのですか?……、そう言われて、いま自分の胸に手を当てている人、あなたの罪はそこにありません。あなたの罪は十字架の上にあるのです。イエス様があなたの全ての罪を身代わりに背負って下さったので、あなたの罪はもうあなたの内にはないのです。」
イエス様が私の罪を身代わりに背負って下さったので、私はもう自分の犯した罪の責任を一切負わなくていい。それこそがイエス様が私に下さった「恵み」なのだ…、と気づかされました。
これまでの信仰の景色が180度変えられる出来事でした。そして、「ああ、私はすでに赦されていたんだ。」という気づきと共に、それまで抱えていた罪悪感という重荷が一瞬にして解かれることを経験しました。
その日以来、私はイエス様が大好きになりました。イエス様が私の罪を責める方ではなく、私を贖って下さる方だと知ったからです。イエス様が、どうやってもうまく生きれない私に怒りを燃やされる方ではなく、憐れんで下さる方だと知ったからです。そして、不甲斐ない私が生き生きと生きることの出来るいのちの道を与えて下さると方だと知ったからです。
マル コ2:17 イエスは彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」
信仰の勘違い
私は十字架に出会うまでキリスト教信仰とは、神を愛し、正しく聖く、七三分けのスタイルで、まじめに生きることだとどこか思い込んでいる所がありました。また、この神に喜ばれる生き方をすることが祝福の秘訣であり、喜ばれない生き方にはいつか神の怒りが下されると信じていました。
これは、まさに「神様のために生きる信仰」であり、「神様に認められよう、愛されようとする信仰」です。
しかし、本来のキリスト教信仰とは「キリスト信仰:救世主信仰」であり、私たちを創造され、私たちの存在をすでに愛しておられる神様が、キリスト・イエスを通して私たちに与えて下さった救いを信じる信仰のことです。
つまり、換言するなら「私たちのために働かれる神様を信じる信仰」であり、「私たちを愛して下さる神様を信頼する信仰」です。
「私が神の前で何をしたのか、あるいは神のために何をしたか?」ではなく、「神が私のために何をされたのか?」が、信仰の要点なのです。
スティーブ・マクベイは聖書のメッセージをこのように要約しています。
新約聖書の強調点は、キリストのために生きることではない。キリストとともにあるということ。(キリストによって生きること) スティーブ・マクベイ/恵みの支配より
恵みを生きる
キリスト教信仰においての「恵み」の定義は、「受ける価値の無い者に与えられる神の愛の賜物(プレゼント)」とされます。
恵みは、正しく生きた者に対する報酬でありません。恵みとは、私には神様から良いモノを受ける価値も資格もないはずのに、その私の懐に良いモノを一方的に押し込もうとしてくる父なる神様の愛であり、その愛の具体的な現れなのです。
そして、恵みを生きるとは、この差し出された神様の愛とプレゼントを、私の方が信頼して受け取っていくことなのです。
「あなたはイエス様のために熱心に色々しようとしているけれども、イエス様があなたにして下さることの方が大切やねんで…。」
小さい時に聞こえたあの声は、今日、私の中に大きな声となって響き渡っています。
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