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恵みを生きるシリーズ#11 約束と現実の間で2


創世記32:3‐8

ヤコブは、セイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに、前もって使いを送った。ヤコブは彼らに命じた。「私の主人エサウにこう伝えなさい。『あなた様のしもべヤコブがこう申しております。私はラバンのもとに寄留し、今に至るまでとどまっていました。私には牛、ろば、羊、それに男女の奴隷がおります。それで私の主人であるあなた様にお知らせして、ご好意を得ようと使いをお送りしました。』」


使者は、ヤコブのもとに帰って来て言った。「兄上エサウ様のもとに行って参りました。あの方も、あなたを迎えにやって来られます。四百人があの方と一緒にいます。」


ヤコブは非常に恐れ、不安になった。それで彼は、一緒にいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けた。「たとえエサウが一つの宿営にやって来て、それを打っても、もう一つの宿営は逃れられるだろう」と考えたのである。


我が家の末っ子は年中さんです。まだまだ幼くとても感情が豊かです。日常に起こる些細な出来事の中で心が上下左右へと振れ動きます。さっきまで笑っていたかと思うと怒って泣いている。そして、何やかんやとしている内にまた笑って次のことを始めている。一日の内で何度もそんなことを繰り返している我が子の姿を見ると、私達の大人の信仰も彼に似ているところがあると思わされます。



信仰と不信仰の間で

神様の約束を信じて故郷に戻ったヤコブでしたが、過去に騙した兄エサウの存在が最大の問題としてヤコブの前に立ちはだかります。悩むヤコブに神様はマハナイムで神の陣営が彼と共にあることを見せて下さいました。勇気づけられてエサウ問題に取り組み始めたヤコブなのですが、エサウが400人を引き連れて迎えに出てきていることを聞いたときヤコブは震え上がります。


32:7 ヤコブは非常に恐れ、不安になった。それで彼は、一緒にいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けた。


一部の聖書学者たちはマハナイムの出来事とエサウの接近は、同日に起こった出来事と考えています。つまり、ヤコブは午前中にマハナイムで信仰の励ましを経験し燃やされて、午後にエサウの知らせを受けて恐れ意気消沈したということです。


幻を見るほどの神様の励ましを経験してなお、半日さえもその信仰が持たないヤコブ。彼の姿を見てどのように感じるでしょうか?


ある人は「なんと情けない信仰か」と思うかもしれません。昭和時代の伝道者の証を聞いていると、時々、恐れや悩みを抱えていると「何と生ぬるい信仰か!」と牧師や宣教師に叱咤激励を受けた…というようなスポ魂的な証をお聞きしますが、そのような世界観で見ればここでのヤコブは「情けない信仰者」の姿でしょう。



しかし、私はヤコブのような弱さを見せるのが普通なのではないか?と感じます。大きな恵みを頂いて励まされても、次の日に小さな嫌な出来事で信仰を失う…、いまだに私自身もそのようなことを日々経験しています。


当然、信仰は弱いより強いほうがいいです。困難に揺れ動く信仰よりも、揺るがない信仰がいいに決まっています。しかし、そもそも、そんな信仰を誰か最初から持ち合わせているのでしょうか?また、誰が自己鍛錬でそんな信仰に至ることが出来たでしょうか?


聖書が記録している「神の民イスラエル」の姿は非常にもろい信仰者です。

例えば、イスラエルの民が出エジプトの際に、海が割れる奇跡を経験したその三日後に、荒野で「水がない!死んでしまう!」と怯えて大騒ぎしたことが記されています。


また、聖書全体を見ても、アブラハム、モーセ、ヨシュア、ダビデ、エリヤ、ペテロ、パウロ、神にある信仰の人たちの誰もが信仰と不信仰の中を揺れ動いていたことを記録しています。特にパウロは、聖霊の満たしを何度も経験していてなお、恐れに囚われた夜が度々あったことが記されています。



神の恵みを豊かに受けも、場合によっては半日と信仰を保てない弱さを持っている。それが「聖書の証している信仰者の姿」ではないでしょうか?




朝に夕に

神様の約束と困難な現実、恵みと問題、信仰と不信仰、喜びと悲しみ、それらの間をゆらゆらと揺らぎながら危うく歩んでいるのが私たちです。


しかし、同時にそんな私たちの弱弱しい信仰を支え続けてくださるのが神様なのです。私たちの信仰が半日しか持たないなら、神様は私たちを支えるために、朝だけではなく、夕にも恵みを与え下さるのです。


信仰の人ダビデはこう祈りました。

詩55:16-17 私が神を呼ぶと主は私を救ってくださる。夕べに朝にまた真昼に私は嘆きうめく。すると主は私の声を聞いてくださる。


詩篇に見るダビデの信仰の特徴は、絶え間なく主を礼拝し、求めていることです。つまり、言い換えるなら、彼が信仰の人であり続けることが出来た秘訣は「強く信仰を保ち続けたこと」ではなく、夕にも朝にも絶え間なく神様の前に出て行き、「信仰を支え続けて貰っていた」ことでした。


信仰を意思によって強く保つのではなく、絶え間なく主から頂き続けること、これが大切な私たちの信仰の姿勢です。そして、恵の神である主は、私たちを支え守るために絶え間なく私たちの声を聴いて下さる方です。



信仰と不信仰に揺れるヤコブを見て「情けない」と思う霊性ではなく、そんな弱さを持つヤコブと私たちを支え続けられる「神様の恵み」を見つめれる、そういう霊性を養っていきたいと思います。

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