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恵みを生きるシリーズ#12 訓練と恵みついて1



創世記32:7‐8 そこでヤコブは非常に恐れ、心配した。それで彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう」と言った。

 

エサウとの対峙を前にして信仰と不信仰の間を揺れ動くヤコブですが、この葛藤を通して彼はヤコブ物語のハイライトである「ペルエル:神との格闘」の経験へと導かれていきます。彼はペルエルでの一晩で「ヤコブ:踵を掴む者」から、「イスラエル:神の王子」へと造り変えられていきます。

 

このハイライトを読んでいく前に、ペルエルに導かれるまでのヤコブの姿をもう少し学びたいと思います。

 



相変わらずのヤコブ

32:7‐8 そこでヤコブは非常に恐れ、心配した。それで彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう」と言った。

 

エサウを大いに恐れたヤコブは自分の一族を二つに分けました。その理由はたとえエサウの襲撃にあってもすべてを失うという最悪の事態を避けるための対策でした。

 

何とか生き抜こうと計画を練り、努力し続ける中に「相変わらずのヤコブ」の姿があります。祝福を得るために策略を練り父と兄を騙したように、彼はいつも本気で神様の祝福を信じて求めていますが、それを恵みではなく自分の努力で手に入れようと動き続けてしまうのです。それがヤコブの生まれながらの性質、神の働きを無視する罪性であり、彼の人生の根本的な問題でした。(※人の性質や努力がそのまま「罪:悪」なわけでありません。詳しくはこちら。

 

そして、それは強烈なキャラクターの叔父ラバンの下で苦労しながら20年以上も主の取り扱いを受けてなお、変わらない彼の根本的な罪の性質でした。ウォッチマン・ニーはこう語ります。


ヤコブは…神の力強い御手の下に服することを学び始めました。それでもヤコブという人が全く変わったわけではありません。…ヤコブはやはり古いヤコブであって、ラバンでさえ彼をどうすることも出来なかったのです。(アブラハム・イサク・ヤコブの神 P207)

 

「ラバンでさえヤコブを変えられなかった」とは、「神の訓練でさえヤコブの罪性を取り除くことは出来なかった」と同意義と言えます。

 

人生の訓練は神様からの贈り物であることは確かです。このシリーズでも「神の取り扱いの恵み1,2,3」とで書いた通り、訓練は恵みであり私たちを成長させていきます。しかし私達が心に留めておきたいことは、人は訓練だけでは「生まれ変わること」は出来ないのです。



訓練では変われない

私達もそれなりに長い信仰生活を歩み、「自分もだいぶ変わって来たんじゃない!?」と思った矢先に、やっぱり変わってない罪人の自分の姿に出会って、驚き失望することがあります。

 

私は20代後半からと父とぶつかることが多く、父との関係を回復することそれが私の課題でした。そのような中で私自身は、20代後半から30代前半に信仰者としても伝道者としても大いに神様に訓練をされたので、自分でも昔と随分変わったと思いました。実際に35歳を超えるごろからは父とぶつかることも殆どなくなりました。父との問題は過去のものとなったと感じていました。

 

しかし、ある日、突然に父との喧嘩が起きました。その日の喧嘩は、これまでは怒っていても決して使わなかったよう言葉が飛び交うようなひどい争いでした。

 

実家からの帰り道、車の中で私は泣きました。自分があまりにも情けなくて涙が止まりませんでした。今までの信仰者、伝道者としての訓練は何だったのか?10年にわたる神様にある訓練のすべてが空しく感じるほどに、昔と変わらない愚かな自分がいました。

 


パウロは伝道者として真摯に主に仕え、研鑽を摘み、幾多の試練に耐えた後に、「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。…私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。ローマ7:19、24」と、自身の変わらない罪人の性質を告白しています。

 

これが「現実を生きる信仰者の姿」です。そこには、訓練によって磨かれ、叩き上げられ、造り上げられた、私たちがイメージしがちな「鉄人のような信仰者」の姿はありません。

 

聖書が証していることは、私達がどんなに信仰生活を積み上げ、生活と人格を磨こうとも、努力では「罪の性質」から逃れることは出来ないということです。


もちろん、キリストを信じた時点で私たちの生涯の罪は赦されていますが、私たちの「罪性:罪を犯す傾向」は私たちの内側に残り、人生にマイナスな影響を与え続けます。ですから、私達はイエス様を信じていてもいつまでたっても神様に喜ばれないことを思い、喜ばれないことを生きてしまうのです。

 

 

「誰が」私を救い出してくれるのでしょうか?

神様の訓練で変われないとするなら、私たちは生涯変わることが出来ないのでしょうか?もちろん、それも違います。神様の約束は私達がキリストにあって「新しく生まれ変わること(コリントⅡ 5:17)」であり、新しくされた者として生きることなのです。

 

私達が再度見つめなおすことは、私達がキリストにあって新しく生きるために本当に必要なことは、訓練ではなく、救われることなのです。

 


だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ローマ7:24‐25

 

ここでパウロは自らの深い罪性を嘆きながら「救い」を求めています。そもそも罪とは私達が決して克服できないものです。私たちの努力も良心もすべてを凌駕し、支配し、私達を死、滅び、虚しさ、へと引きずりこむ力です。

 

その圧倒的な罪の力に対して私達は「キリストによる十字架の御業」によって救われたのです。それは恵みでありプレゼントなのであって、私たち側の努力ではありません。罪への勝利とは勝ち取るものではなく、頂くものなのです。克服するものではなく、助け出してもらうことなのです。私たちが恵みよって「罪の結果である死から救い出された」のなら、「罪人の性質から逃れるのも救いによる」のです

 

 

さらに注目するべきは、パウロが自分の罪に対するみじめな現実に対して「“どうすれば”、このみじめさから抜けだせるのか?」と問わずに、「誰が私を救ってくれるのか?」と問いかけていることです。

 

「どうすれば?」から「誰が?」へ、私たちの信仰の視点が変わることこそ私たちが恵みによって新しく生きる道なのです。

 

「どうすれば?」から「誰が?」へ、そして「キリストが、神様が、私を罪の支配から救い出してくれる!」という視点に信仰が変えられていく時に、私たちは死んだ者さえも生かすことの出来る御霊なる神様の力によって、新しく生かされていく恵みを受け取っていくのです。

 

もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。ローマ8:11

 

次回に続く・・・

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