創世記27:42‐44 兄さんのエサウが、あなたを殺して鬱憤を晴らそうとしています。さあ今、子よ、私の言うことをよく聞きなさい。すぐに立って、ハランへ、私の兄ラバンのところへ逃げなさい。兄さんの憤りが収まるまで、おじラバンのところにしばらくとどまっていなさい。
訓練を受けるヤコブ
祝福の祈りのことで兄エサウの怒りを買ったヤコブは、父と母の言葉に従って自身の命を守るために叔父ラバンのもとに身を寄せることになりました。
策略と嘘によって長子の権利と祝福の祈りを手に入れたヤコブでしたが、彼に待っていたのは祝福による安泰の生活ではなく、家をから追われ、杖一本、身一つで荒野を逃亡するという経験でした。
ここからヤコブの神の人として具体的な訓練が始まっていきますが、まず神様がヤコブになされたことは、彼から、親、家、財産とういう大切なモノを彼から取り上げることでした。言葉にするととても厳しい出来事ですが、この経験が「訓練の恵み」として働き、後のヤコブの人生を生かしていきます。
ヘブル12:5‐6 わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。
取り扱われたヤコブの性質
1,能力に頼る性質
ヤコブの訓練を始めるにあたって神様がまず取り扱われたことは、「出来る人」としてのヤコブを打ち砕くことでした。ウォッチマン・ニーは生来のヤコブの性質を次のように評価しています。
彼は実に策略家で、打算的で小賢しい人でした。彼は何でも出来たし、そして何でもやり遂げました。彼は聡明で、才能もありました。これがヤコブです。(「アブラハム、イサク、ヤコブの神」より)
ニーのことばの通り、ヤコブは非常に能力のある人です。父と兄から長子の権利と祝福の祈りを手に入れるために策略を巡らせることの出来る知力と、計画を実行しやり遂げて行く能力がありました。また、後にヤコブが叔父のラバンの下で働く姿を見て行くと、彼がいかに有能で忍耐強い人物であるかを知ることが出来ます。
能力があること自体は恵みなのです。しかし、ヤコブが策略と実行力を駆使して自力で神様の祝福を手に入れようとしたように、能力の高い人は能力が豊かであるがゆえに自力で神様の祝福を手にしようとする傾向があります。
ヤコブはまずこのような性質を神様に取り扱っていただかなければなりませんでした。
神様は「人の能力」を拒否しているのではない
神様の取り扱いを考える時、勘違いしてはいけないことは能力を用いる生き方が悪いわけではないということです。
個人に備わる能力は先天性、後天性関係なく、それらは神様が下さるものであり、天に属する霊的なものであり「恵み」なのです。
エペソ4:7 私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました。
そして、イエス様がたとえ話で教えておられるように、タラント(能力)を私たちが存分に用いて生きることは神様が期待されていることです。与えられた能力を存分に用いて生きることは、決して「悪いこと」ではないのです。
それでも、聖書の中で神様が人の能力を拒否されるような場面に出くわすとき、それは神様が人に与えた能力を使って生きることを拒否しているのではなく、能力で生きる以上の生き方を私たちに教えるために一時的に拒否しているのです。
能力だけでは味わえない御業の世界
ヤコブと同じように高い能力があるがゆえに取り扱われた人にモーセがいます。モーセはイスラエル人でありながらエジプトの王子として育てられる特別な人生を歩みました。当時世界最高の教育ともいえるエジプト王家の教育を受けたモーセは、40歳になる頃には国の指導者となるための能力を身に着けた最高の人材に成長しました。
使徒7:22‐23 モーセは、エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにも行いにも力がありました。モーセが四十歳になったとき、自分の同胞であるイスラエルの子らを顧みる思いが、その心に起こりました。
モーセは高い能力を持ってイスラエル救済の指導者として立ち上がるのですが、イスラエル人を助けるためにエジプト人を殺害した事件を通して、人々は指導者としてのモーセを拒否しました。モーセは王子としての立場も失い、殺人犯として荒野へ逃亡する人生へと転落し、40年という長い長い神様の訓練の季節に入っていきます。
神様はモーセに大国の指導者級の能力を与えられましたが、そのままで彼を用いられませんでした。その理由は彼を「人の出来る業だけで生きる世界」から連れ出して、「神様ご自身の偉大な御業を体験する世界」を彼の人生に与えるためでした。
もしモーセが訓練なしに働いたなら、彼は政治力と指導力だけでイスラエルを導く世界しか経験できなかったでしょう。しかし、能力を一時的に取り上げられ、神様により頼むことを訓練されたモーセが体験したのは、神様の御業によって海が割れる世界でした。
それは、政治的交渉で妥協案を飲みながらエジプトから開放を手に入れて行く世界ではなく、一夜にしてエジプトから完全に開放される奇跡の世界でした。
また、モーセが神様により頼みながら荒野の旅をすると、飲み水が岩から湧き出、毎朝パンが天から降ってきました。
このような御業の世界は、人が与えられた能力だけで生きているときには絶対に体験できないのです。神様により頼むことを知っている人が体験できる御業の世界であり、恵みの世界です。
与えられた能力は賜物です。それは用いられるべきです。モーセの指導者としての能力も荒野で民を導くときに大いに用いられました。神様は能力を用いて下さいます。
しかし、忘れては行けないのは、神様は私たちの為に「能力だけでは味わえない驚くべき世界」を準備しておられるのです。それは神様に頼ることを知らなければ、また訓練されなければ、開かれて行きません。
ヤコブやモーセが訓練されたように、一時的に自分の能力を虚しくされ、取り上げられ、荒野を彷徨うことは恵みです。その訓練が私達を御業の世界へと導くのです。
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