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恵みを生きるシリーズ#6 取り扱いの恵み2


創世記128:10-11 ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。



取り扱われたヤコブの性質

2,親からの独立

ヤコブになされた2つ目の神様の取り扱いは親からの独立です。ヤコブは父と母がいる家庭で生きてきましたが、この荒野への逃亡を機会に初めて親から離れて人生を歩む経験をしていきます。


人が大人になっていく過程で最も大きな出来事の一つが保護者である親からの独立です。大学進学、就職、結婚‥など、人によってタイミングは違いますが、親の保護、扶養、指示、価値観の外に出て、自身で働き、考え決断し、行動して人生を歩むことを経験していきます。


そして、人は「自身で人生を生きる」ことを学び、自身の人生に責任を負う「大人」へと成長していきます。ヤコブにとって親元を離れて叔父のもとに向かう経験はまさに独立への第一歩でした。


特にヤコブにとっては信仰面において親からの独立することはとても重要でした。神様の祝福を受け取っていくためには、偉大な信仰者の親であるイサクを通しての信仰でなはなく、自分の信仰を生きる始める必要がありました。つまりヤコブは自分が出会った神、自分が体験した神として、神様を信じていく必要がありました。



親の信仰で生きるな

私が神学校在学中、学院長夫妻が牧師子弟の学生に対して「親の信仰で生きることを止めなさい。」とアドバイスされていることが何度かありました。


信仰二世三世によく見れることですが、信仰の家で育った人は家庭の中で身に着けた信仰的な言葉を人生のシュチュエーションに応じて上手に口に出来るのです。しかし、それは単に教えられた言葉なので、語っている本人が自分の言葉に実感を持って語れていないことが多いのです。


信仰に知識は必要ですが、神様との関係である信仰は知識だけでは生きたものとなりません。実際に自分で神様を体験しないと信仰は生き生きと輝かないのです。そういう意味で、親元を離れて自分の信仰を生き始めることは「成長の恵み」なのです。



また、これは実の親子間だけの話しではありません。誰にでも福音を教えてくれ、手取り足取り導いてくれた信仰の親がいます。その人の世話によって信仰が始まるのですが、ある時点においてはその人から離れて、自立して神様を信じていく経験をする必要があります。


親に祈ってもらうだけの状態から、自分で祈ることを体験して行くのです。みことばを教えてもらうことから、自分で聖書を読んで学んで行くことを体験して行くのです。


ちなみに、「信仰の自立」とは親との関係を断ち切って行くということでは全くありません。人が成長すると親との関係が保護者と保護対象者から、一対一の大人同士の関係へと変わるように、祈ってもらっていた関係から、祈り合う関係へ、励ましてもらっていた関係から、励まし合う関係へと、成熟した信仰の大人同士の関係に変わるのです。



ユージン・ピーターソンは、少年期から青年期へ移行した子と親の信仰の関係の変化をこのように語っています。


「それは、父と娘、母と息子という関係ではなく、二人のクリスチャンとしての関係である。」(若者は朝露のように p44)




親子依存の問題

神様がヤコブになされた取り扱いには、特に「母親依存」から離される面が大きかったと思います。双子の兄エサウがすでに結婚をしていたことから、ヤコブはすでに年齢的には十分に大人であったことが伺えますが、父母の家に住むヤコブの姿からは母親に依存しているヤコブの姿が見えます。


そもそも父を騙して祝福の祈りを奪うことは母リベカの発案でしたが、ヤコブは母の計画に対して「父を騙すなんて倫理的にどうなのか?」と、自分で悩んだり葛藤している様子が全くありません。「母が言うならやります。それがベストでしょう。」的な、母親に盲目的な信頼を寄せているヤコブの姿が見えます。


母親を信頼することは大切なことですが、母親が勧めることへの善悪の判断をしないで従うことは、信頼ではなく「親依存」です。本来なら自己判断するべきことを親に丸投げにして背負ってもらっている状態です。


また、成人した息子の将来の問題に対して、母がアドバイスではなく具体的に計画を練り、行動を指示し、手伝い、実行させる姿を見ると、母リベカには「過干渉・子依存」等の不健全な母の姿が見えます。


これらの親子依存の問題は根っこに不健全な愛情があり、現代では様々な研究が進み対処や治療が確立されていますが、ここで考えたいことは「ヤコブが成長するためにはこの親子依存状態から引き離される必要があった」ということです。


そして、神様は親子共々に歪んだ愛情の中に埋もれ、母が子を支配して父を騙すようなひどい状態のヤコブの人生にそれを行って下さったのです。


ヤコブの人生は一見、生家を追われ、財産を失い、荒野の中で孤独に震える状態でしが、神様がヤコブになされたことは不健全な人生からの救済です。時として親から引き離されること、これもまた一方的な神様の愛のプレゼント、「恵み」なのです。



親依存から神依存へ

創28:12-13すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。


「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。」


親から引き離されたヤコブが荒野の中で出会ったのは、自分の傍らに立たれる神様でした。親イサクに現れた神ではなく、自分の人生に現れた神を体験したのです。


そして、神様はヤコブに祝福の約束を語ります。父祖アブラハムに語られたように、父イサクに語られたように、全く同じようにヤコブ自身への祝福として、祝福の約束を語られます。


個人的に神様に出会うこと、神様を体験することほど、人の信仰を成長させるものはありません。私たちの信仰は「生きた神」との現実的な交わりを持っていく時に輝いていくのです。


「神の人ヤコブ」の信仰のターニングポイントはこの出来事でした。


神様は私たち一人ひとりにも同じように出会って下さいます。誰かの神ではなく、あなた神としてご自身の臨在をあなたに表して下さいます。



また、ヤコブはここで信頼し依存してきた親(特に母)から、神様に信頼を置き換えていきます。ヤコブが経験したことを、F・B・マイヤーはこう語ります。



「やがて時が来たら、子どもは自分で生活費を稼ぐために出て行 かねばならない。名をあげ、独り立ちし、自分で選択し行動するために、育てられた家をあとにしなければならない。それは厳粛な転機ではある。 

しかし、このような時に、全能者は旅人として近づき、まだ踏んだことのない道を進もうとする私たちに同伴者を提供してくださる。このような助けを差し出され、地上のものからの独立を、天の友人であるお方への依存へと切り替える人は幸いである。」(神と格闘した人 p53-54 F・B・マイヤー)


マイヤーの言葉にヤコブになされた恵みの大きさを覚えます。私たちにも神様は同じように取り扱って下さり、地に依存して生きる者を、天に依存して生きる者へとしてくださる、そんな恵みを下さる方であることを深く心に留めたいと思います。



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