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恵みを生きるシリーズ#7 取り扱いの恵み3 ラバンの下で


創世記29:20‐23 ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。ヤコブはラバンに言った。「私の妻を下さい。約束の日々が満ちたのですから。彼女のところに入りたいのです。」そこでラバンは、その土地の人たちをみな集めて祝宴を催した。夕方になって、ラバンは娘のレアをヤコブのところに連れて行ったので、ヤコブは彼女のところに入った。



嫌な人に仕えるという取り扱い

誰でも少なからず嫌な上司や先輩の下で働いた経験があると思います。もしかすると中には大きな声で怒鳴られたり、理不尽な仕事を命令されたりとした方もあるかもしれません。

ヤコブも荒野の旅の後、身を寄せた伯父ラバン下で働くのですが、このラバンは大変に問題のある人物でした。


ヤコブは約20年という長い年月をラバンのために仕えて働くというつらい人生経験をしていきます。それは気の遠くなるような暗い人生の季節ですが、聖書はそれらの出来事を「神様がヤコブに対してなされた神様の取り扱いの恵み」として描いています。



人を騙してきたヤコブが、ラバンに騙される

ヤコブがラバンのもとに身を寄せた当初は、ラバンは非常に好意的な態度で甥のヤコブを迎え入れました。さらにラバンはヤコブに「あなたを家でタダ働きさることは出来ない。働きの報酬を与えるので欲しいものを言いなさい。」と告げました。ちょうどヤコブはラバンの次女のラケルに恋をしていましたで、「ラケルを妻として下さい。」と娘との結婚を要求しました。ラバンはヤコブの要求を受け入れ、「7年間働いてくれたら、娘との結婚を許す。」と約束しました。


愛するラケルのために喜んで7年間働いたヤコブでしたが、約束の婚礼の日に事件が起きます。ラバンはヤコブとの約束を破って次女ラケルではなく、長女レアをヤコブに与えたのでした。朝に自分と寝床を共にしたのが、愛するラケルではなく、レアであったことに驚いたヤコブはラバンに猛抗議します。



ラバンはヤコブを落ち着かせながら、創世記29:26-27「われわれのところでは、上の娘より先に下の娘を嫁がせるようなことはしないのだ。この婚礼の一週間を終えなさい。そうすれば、あの娘もあなたにあげよう。その代わり、あなたはもう七年間、私に仕えなければならない。」とヤコブに告げました。


何となくそれっぽいとことを言いますが暴論です。ラバンの魂胆はもう7年間ヤコブという都合のいい労働力を確保することでした。ヤコブは騙されていると感じながらも、ラケルのために渋々ラバンの策略を受け入れ、もう7年間働くことにしました。




これまで父と兄を騙してきたヤコブでしたが、騙してきた人が、騙される側に回ることほど、「騙される痛み」を経験することはありません。ヤコブはここで自身が行ってきた「人を騙す」ということの愚かさと、罪深さを深く反省させられたこととなったでしょう。


また、結婚後もラバンに苦しめられるヤコブの姿が創世記には続きますが、ラバンのもとでの20年はヤコブにとって非常に忍耐を強いられる訓練期でした。




神の恵みとしての取り扱い

自分を騙し搾取の限りを尽くしてくる相手に20年仕えるということは並大抵のことでありません。つらい人生の季節の中でヤコブは、神様が荒野で約束して下さった「祝福の約束」を忘れておられるかのように感じていきます。(その証拠に彼は後のエボクの渡しで主との格闘の末に「私を祝福して下さい」と懇願しています。祝福の約束を頂きつつも、祝福の実感が全くないから出てくる言葉です。ヤコブの祝福については後日書きたいと思います。)


私達もつらい人生の訓練期を通らされるとき、ヤコブと同じように感じます。まるで自分の人生が神様に見捨てられ、祝福なんてないように感じます。「この状況のどこが恵みの人生なのか?」と、神様の取り扱いに対する文句と疑問の言葉がついつい口からこぼれてしまいます。


しかし、そのようなつらい季節を行くとき私達が思い出さなくてはならないことは、どんなつらい経験の中にあっても神様がご自分の御手を持って取り扱いって下さっていることはやはり「恵み」であるということです。



私たちの人生にとって最悪なことは、「つらい経験をすること」ではなく、「誰にも訓練してもらえないこと」です。


人気ラッパーであるYZERR(ワイザー)さんは、すさんだ家庭で育ちました。育った地域も薬物や、貧困、暴力が当たり前の世界で、中学生のころには学校の先生に警察に被害届を出されるほど手の付けられない非行状態になったそうです。


結局、多くの事件の末に医療少年院に送られるのですが、そこでカウンセラーと向き合うことで「自分がいかに大切なことを教えられないで生きてきたのか」という事実に気づかされます。


「これまで生まれ育った環境がいかに特殊であったかを、少年院のカウンセラーから告げられ、自分が生まれ育った環境の特殊性にはじめて気付きました。…いまならいけないことだとわかりますけど、当時は人のお金や物を盗んではいけないことが本当にわかっていなかったんです。YZERR/フォーブスジャパン インタビューより」


彼はこの出来事を機に、「教えられることを、学ぶこと」を大切にし、ミュージシャンとしての才能を開花させ、武道館で公演するほどの成功を手に入れて行きました。



訓練のない人生は、誰にも取り扱ってもらえない人の人生は、一見、気ままで自由に見えますが、その行きつく先は実りのない人生であり、暗いものです。


厳しくも、愛を持って自分に向き合い、大切なことを教えてくれ、訓練してくれる存在がいるからこそ、私たちは人生になくてならない大切なことを手に入れることが出来るのです。


ヘブル12:5‐7 そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。



与えられた環境を恵みとして受け取る

神様は私達をご自分の子として愛しておられるが故に、私たちに訓練の季節を与えられます。それは時には何年も続くつらい人生の季節ですが、私たちが神様の愛の御手で造りかえられていく「恵みの時」なのです。


少し長いですが、最後にウォッチマン・ニーの言葉を引用します。この言葉に励まされ、自分の人生になされている「取り扱いの恵み」を覚えたいと思います。



わたしたちは、神の御手によってなされることはみな正しいということを信じなければな りません。わたしたちの環境は神によって計画されたものであり、それはわたしたちの益の ためです。環境による一つ一つの計画はみなわたしたちの益のためであり、それはみなわたしたちの生まれつきの特別強いその一部分を対処するためなのです。… 神はご自分のなされることが何であるかをご存じです。本来ヤコブという人は、ひとりの無情な人でしたが、しかし神の訓練を受けて老年に達したときには、 彼はひとりのいつくしみ深い人と変わりました。わたしたちの遭遇することはみな聖霊の中で、わたしたちの必要に応じて一つ一つわたしたちに下さったものであるということを見ることができますように。


それぞれのクリスチャンの身に起こったことは偶然ではありません。クリスチャンが遭遇するすべてのこと、それはみな聖霊によって計画されたものです。これらはみなわたしたちを造り上げるためなのです。わたしたちはそこで訓練され、試練を受けるとき、当座は気持のよいものではなく、喜ばしいものとは思われません。しかしこれらはみな神がわたしたちの上になされるみわざです。


これから後、わたしたちの遭遇することはみな、わたしたちにとって益であることを見ることができますように。 「アブラハム イサク ヤコブの神 212-213頁」 ウォッチマン・ニー

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