ヘブル12:15‐17 だれも神の恵みから落ちないように、…気をつけなさい。また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。
ヤコブは父と兄を騙してまで神様の祝福を獲得しようとしましたが、結局は荒野に逃亡する羽目になりました。この荒野の歩みからヤコブの恵みを知る旅が始まるのですが、その前にもう一つ若いヤコブの姿から「祝福を求める心」を学びたいと思います。
人生は「求めているモノ」に影響を受ける
中年になり中学時代の友人達を見渡すと、それぞれ求めて来たものがその人生に現れていると感じます。
10代のころに車やバイクが好きだった人は車屋になり、趣味でカーレースに通っています。スキーが大好きだった人は、息子がオリンピックに届くかもしれない選手になり全国のスキー場を駆け回っています。学校組織に縛られることが嫌いだった人は会社に縛られずに自営業を営み、中学の頃から倹約家だった人は、後10年すればFIRE(経済的自立による早期退職)も夢ではないと言っています。
誰もが思うように人生を生きているわけではないのですが、それでもその人が心の深い所で求めてきたものが、その人生に大きな影響を及ぼしていることは確かだと思います。
箴言4:23 何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。
ヤコブとエサウの道を分けたモノ
ヤコブの物語は、エサウとヤコブの双子の物語から始まります。この兄と弟は極端に見た目も性格の違う兄弟でしたが、どちらもアブラハムの孫であり、イサクの子です。神の祝福の系図のもとに生まれた者であり、信仰の家の子たちです。
しかし、物語が進むにつれ、神の祝福は弟ヤコブに注がれ、エサウは経済的な成功を治めるものの、後に反面教師として聖書で語り継がれる者になっていきます。
なぜ弟のヤコブは祝福され、兄のエサウは祝福から遠ざかったのでしょうか?何が違いを生んだのでしょうか?
ヤコブは良い人であり、エサウは悪人だったからでしょうか?または神様のえこひいきでしょうか?
そうではありません。二人の兄弟を決定的に分けたモノは、二人が「心に求めたモノ」でした。
ヤコブ
若い日のヤコブはどう読んでも立派な人物でありません。「ヤコブ:押しのける者」の名の通りに、平然と父に嘘をつき、兄の長子の権利を奪います。自己中心で隣人への愛に乏しい人物です。母リベカに支配されている未熟さも見えます。虫けらのヤコブ(イザヤ41:14)と神様に評されるほど、情けない罪人の性質を持っているのがヤコブです。
しかし、彼は「神の祝福を切に求める人」でした。嘘をつきながらもヤコブの心が求めたモノは、長子の権利であり、神の祝福を得る権利でした。ヤコブは何としても神様の祝福を体験してみたいと願い、求めたのでした。
エサウ
反対にエサウは立派な人とは言えませんが、家庭の中では父に喜ばれる存在でした。精力的に山野を駆け回る狩人で、別の民から妻を得てくるような外交的で魅力的な好人物だったと想像できます。決してエサウはヤコブに比べて特別に悪い人ではなかったはずです。
しかし、聖書が明らかにしている彼の本質は「俗悪」です。
一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。へブル12:16
ここに記されているように、エサウは神の祝福よりも、目の前の一杯のスープに価値を見出す人でした。つまり、彼の心が根本的に求めたモノは、神様から来るモノではなく、この罪の世界に属しているモノだったのです。 (もちろん単純にスープを求めることが俗悪なのではありません。ここで指摘されているエサウの俗悪さというのは、神様ご自身と神様の祝福の価値を、この世に見出すことできる喜びよりも低いものとしている彼の価値観です。)
エサウの姿を見て行くと、信仰の家系以外から妻を娶るなど、偶像の世界にある輝きに強く惹かれている傾向が見え隠れします。
これらのことから分かるように、ヤコブとエサウを見て行くと二人の人生の違いは、それぞれに「心に求めたモノ」の違いから来ているのです。
罪深さや情けなさがあっても神様に属する物事に価値を置き「神の祝福を求める者」は、恵みによって祝福の中に導かれていきます。しかし、どんなに立派な人でも神様に属する物事よりも「罪の世に属するモノ」を求めるなら、罪の世に属する人生へと導かれるのです。
恵みから落ちないように
エサウの俗悪さが語られる前に、「だれも神の恵みから落ちないように…へブル12:15」と勧められています。
私達の救いと人生の祝福は「恵み」によります。それは神様からの愛のプレゼントであり、誰にでも無条件に差し出されています。
しかし、恵みがプレゼントである以上、そのプレゼントを受け取るのか、それとも別のものを選ぶのか、という「選択の責任」が私達側に委ねられていることを忘れてはなりません。
言い換えれば、私達は誰もが恵みを受けているのですが、私達の選択によって恵みの立場から落ちることはありえることなのです。
Ⅱテモ手 4:10 デマスは今の世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまいました。
パウロはデマスという信仰の人が、「世を愛して」信仰の世界を出て行ったことを語ります。
無条件の恵みからの脱落。それは私達の心が、神様ではなく、神様以上に世の物事に価値を置き、それらを求める時に起きるのです。
神様の恵みは「取り去られる」のではありません。放蕩息子の例え話に出てきた弟息子の様に、「世を愛し求める。」という自分の意志と選択の結果によって、自ら父なる神様の恵みから遠ざかっていくのです。
私達の心が根本的に求めているものが私達の人生の方向に大きな影響を与えます。
今日、私達の心は何を求めているでしょうか?エサウのようではなく、ヤコブのように神様の祝福を求める心であり続けたいです。
マタイ 6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
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