マタイ 1:2 アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、…
ヤコブの物語から恵みを分かち合おうと書いていますが、ヤコブの物語を進めて行く前に、前回に続きもう少し寄り道をして「恵み」を分かち合いたいと思います。
信仰の家に生まれる恵み
ヤコブは、アブラハムの孫であり、イサクの子です。彼は信仰の家に生まれた者でした。
信仰の家に生まれることはそれ自体が大きな恵みです。
例えば、日本人の私たちは現代の世界共通語である英語を習得するのにかなりの苦労と鍛錬を要しますが、英語圏に生まれた人はノンストレスで英語を習得していきます。誰にとっても英語は同じ言語なのですが、生まれた環境でそれを自分のものする苦労度には天と地の差があります。
同じように、「聖書の神様」を知らないゼロ状態から自分で神様を求め信じるまでの行く道のりを辿るのと、神様を生まれながら知ることできる環境の中に生まれ育てられるのではやはり違います。
私も信仰の家に生まれた者として、クリスチャンホームに生まれたことは一方的な神様の恵みだと心から思います。もし自分が信仰の家に生まれなかったなら、今頃私はキリスト教の信仰なんか見向きもしない人生を彷徨っていたと思います。
二世問題
昨今、新興宗教の問題の中で「宗教二世」の苦しみについて取り上げられるようになりました。カルト的な信仰は別問題として、親世代から子世代への信仰継承で問題が起き、子世代が大きな葛藤や苦しみ経験することは確かにあるものです。
信仰に悪影響という理由で極端に遊びやおもちゃや習い事を制限されたり、教会での重すぎる奉仕を強制されたり、大人でも難しい信仰生活の基準を押し付けられたりと、カルト宗教で起きている同じようなことは、残念なことですがリスチャンの中でも昔から頻繁に起きていることです。
親の歪んだ信仰継承が、子に信仰を祝福としてではなく一種の暴力として押し付けてしまうことは、私たちの家庭で起こりえることです。
ですから、信仰を伝える親世代は、子に信仰を祝福として伝えることにしっかりと向き合っていかなければならないし、信仰を伝えること自体を学んで行く必要もあるのです。
しかし、それでも強調したいことは信仰の家に生まれることは恵みそのものなのです。
信仰者の親が、失敗を繰り返しながら不器用にも我が子に必死に手渡そうとしているのは、この世の何物にも代えがたい「救い」であり、人生を豊かにする「いのち」です。
ヨハネ 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」
使徒 4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。
マタイ 16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
「イエス・キリストを信じる」というかけがえのない恵みを、生れながらに手渡されて生きることはとんでもない祝福なのです。
「イエスキリストを信じる信仰こそ最高の祝福」である。もし、この点において同意できないなら、子であれ、親であれ、私たちは根本的に自分たち信じている福音を否定していることになります。
子世代は「恵み」を見失うな
信仰の子世代は「信仰をもらったこと自体が祝福である」ということに心に留めるべきです。
確かに多かれ少なかれ誰でも信仰の家庭の中で痛みを経験することはあります。
イサクの家も偏愛の問題を抱えていました。父は極端に兄を愛し、母は弟を愛しました。その歪んだ家庭の愛情が兄と弟の対立を生み出していきます。アブラハムの信仰の家系でさえ問題を抱え子供たちは大いに傷を受けました。
完璧な家庭などありません。どの家も問題を抱えていますし、そこで受けた傷は時には「大変でしたね。」では済ますことできない人生の問題となり、痛みとなるのも事実です。
しかし、自分が育ってきた過程で受けた傷ばかりに目を留めていると、自分が親を通して頂いた恵みの大きさを見失います。
信仰の家に生まれるということは、「イエス・キリストへの信仰」という最も偉大な祝福が溢れている場所のど真ん中に生まれて来ることなのです。
家庭にどんな痛みがあろうと、根本的に祝福されていることが変わらないのも、また事実なのです。
親世代は「恵み」を手渡すことを見失うな
また、親世代も自分が子に伝えようとしているものが、何物にも代えがたい「宝もの」であることを信じなくてはなりません。そして、この宝を手渡すことに向き合わなければなりません。
昨今の宗教問題の中で、「親が子に信仰を押し付けることは良くないのではないか?」という考えがクリスチャンの親の方からも多く聞こえて来るようになりました。
当然、信仰を押し付けることはよくありません。しかし、「信仰を押し付けること」と「信仰を教えること」をはき違えてもいけません。
「押し付ける」ということは、子の気持ちを無視したり、あるいは置き去りにしたまま強制することであり、「教える」ということは、子供に熱心に言葉で語りつつ、実際にやって見せ、「やってごらん」と体験させ、手取り足取り伝えて行くことです。
例えば、親が野球やサッカー好きで子供をそれらのクラブに通わせる親も多いと思いますが、多くの親は野球やサッカーを子供に押し付けたりしません。「やってみる?」とこの子の最低限の同意を確認します。
しかし、同時に多くの親は子に同意を求めると共に、熱烈に野球とサッカーの素晴らしさを情熱的に子供に語り伝えます。また、実際に公園に連れ出して実体験をさせてたりします。これは押し付けでなく「自分の好きなスポーツを子に教える、伝える。」という教育です。
子に自分の信仰を熱心に伝えること。つまり、その信仰を体験させよう、熱心にみことばを教えたり、共に祈ったり、礼拝に連れ行ったりすることは押し付けでもなんでもなく、親自身の人生でとても大切していることを我が子に伝えようとしている教育なのです。
「信仰を教える」ことは「信仰を押し付ける」ことではありません。押しつけと教育。両者は近い場所にありつつも、全く違うものなのです。
また、「宗教教育」という言葉がメディアに流される中でネガティブに捉えられえていますが、本来、信仰とは教育なしには根付かないし、育たないものです。
使徒8:29‐31
御霊がピリポに「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい」と言われた。そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが分かりますか」と言った。するとその人は、「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」と答えた。そして、馬車に乗って一緒に座るよう、ピリポに頼んだ。
大人も同じですが、信仰は教えて貰はなくては分からないのです。伝えて貰わなければ、握れないのです。
教会の説教がそうであるように、人は語ってもらうみことば中で、みことばを知ります。祈ってもらう中で、祈ることを学んで行くのです。罪を罪だと教えて貰って、罪を知るようなります。神様にあって赦されることを通して、赦しを体験してくのです。
また、時には手を引っ張って礼拝に連れて行ってくれる人がいるからこそ、礼拝を捧げる大切さ学ぶことが出来るのです。
「信仰の押し付け」と言う言葉に惑わされて、親が信仰を伝えることを止めてしまうなら、恵みの中にあっても子供たちは信仰を受け取れないのです。
私たち親世代も、信仰を「恵み」として信じて、本気で子に伝えて行く必要があります。
箴言 22:6 若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。
「信仰の家庭に生まれることは恵みである。」親も子もこの恵みの素晴らしさを知っている。私たちの各家庭がそんな家庭にますます導かれていきますように。
※また、「若者」の定義を広く持つことも大切です。
40代であろうと、50代であろうと、親から見れば子は子です。子が一定の歳を過ぎたら信仰継承はあきらめなければならない、なんてことは聖書の何処に書いてありません。
また、信仰の大切な部分を知らないなら、パウロが表現するようにその人はいくつであろうと信仰世界では幼子です。信仰の大切な部分を教えてもらう、伝えて貰う必要がある人々なのです。
神様はモーセを80歳から召し出し、訓練しました。
子がいくつになろうと、信仰を伝えることや育てることは出来きます。もちろん、私たちにはできませんが、私たちと共におられる神様にはではできるのです。
信仰という祝福を手渡すことを止めていけません。
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