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戒めの中の神


出エジプト23:5 あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。

旧約聖書に記されている律法を読んでいると、「○○をしなさい。○○をしてはならない。」などの戒律の言葉に疲れてきます。

また、「自分の敵がピンチに陥っていたら、必ず一緒に助けてあげなさい!」とありますが、本当に腹が立つ人の顔を思い浮かべながら読むと「そんなこと実際に出来るか!」って気持ちになります。

そして、「神様の命令は現実離れしてちょっと自分には合わないな…。」というような思いにもなります。

そのような旧約の律法に対するこのような感覚は、私だけではなく多くの人に共通するものだと思います。

しかし、新約聖書の光の中で律法を読むと律法の真実が見えてきます。

まず第一に、そもそも律法は私達が順守することを目的として語られたものではありません。

「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。ガラテヤ 3:24」

とあるように、律法は私たちが神の生き方を守ることできない罪人であることを明らかにし、罪からの救いであるキリストに対する信仰に私達を導いてくれるものであると新約聖書は明らかにします。

第二に、律法は人知を超えた神様ご自身の偉大さ・聖さ・誠実さ、そして愛を私たちに明らかにするものです。

子なる神であるイエス様は、人間が絶対に順守しきれない律法を完全に守りながら地上の歩みをされましたが、そこに見えたのは厳しい戒律を守り、それを人を押し付け、守れなければ容赦なく罰していくような「戒律の神」の姿ではありませんでした。

そこにあったのはご自分に敵対する者たちに対して、十字架に架けられながらも苦しみの中ら「父よ、彼らを罪を赦して下さい」と敵のためにとりなしを捧げる神の姿であり、ご自分が命じた律法の通りに敵対する者を「愛し、赦し、相手が不誠実でも誠実を捧げつくす神」の姿でした。 

まさにイエス様はその生涯の歩みを通して、律法を語られる神様の本当の神様の姿を私たちに明らかにされたのです。

律法は単なる戒律ではありません。新約の光、イエス様という方の光の中で律法が開かれるとき、そこには罪人の私たちに対して私たちの常識を超えたレベルで私たちに誠実と愛を尽くされる神様の姿が見えてくるのです。

あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになっているのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。

律法を戒めとして読むのであれば、律法の命令は「憎き敵を助けてなくてはならない。」としか読めません。これは苦しい戒律です。

しかし、イエス様の姿を透かしながら律法を読むと、「たとえ、私たちが主に敵対しても、主は私達がピンチなると黙って私たちを助けて下さる。」そのように律法の中におられる本当の神様の姿が見えてくるのです。

そして、この方の愛され、聖霊による「復活のいのち」いただき、敵を憎むことしか出来なかった世界から連れ出され、日々主に諭され、支えられ、助けられながら、主と共に敵さえも赦し愛していくことのできる世界、そのような本当の律法の世界へと「恵み」によって招かれていくのです。


私たちは律法の中に示されている「神様の本当の姿」に出会っていく者でありたいと思わされます。。

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