ルカ15:20こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。
放蕩息子のたとえ話。弟息子は父親を捨て、遠い国で放蕩の限りを尽くしたあげく財産のすべて失い、豚小屋の中で人生に行き詰った。彼は豚の餌で自分の腹を満たし程の惨めな生活の中で、父の家に戻ろうと決意して家路についた。彼は遠い父の家に戻る道をどんな気持ちで歩いていたのだろうか?
弟息子の状態を現代風にいえば、夢をもって意気揚々と上京した若者が、都会でギャンブルや快楽にのまれ、仕事も、お金も、友人も、住む場所も失い、ホームレスのような状態になって、田舎に帰るためポケットに残ったお金で鈍行列車に乗り込んだ…という感じだろうか?
とにかく、ネガティブの極地にあるような帰路なのだ。負け戦からの撤退戦であり、自分が失敗者であることを痛感させられる旅路なのだ。弟息子はその家に戻る道を当然惨めに思っただろう。恥ずかしい道だと思ったと思う。自分が情けなくて道ですれ違うすべての人が「自分よりもマシな人間」に見えたと思う。「父の家に戻る道。」それは弟息子にとって情けない出戻りの道だと感じたはずだ。
しかし、トーザーは弟息子が父の家に向かって歩み始めたことについて、聖書は彼の歩みを「戻る」ではなく、「行く」と書いていると指摘しながらこう語っている。
「自分がいた所から父の家に行くことは、精神活動の中での前向きの歩みであった。それは退却ではなく、以前の行状を乗り越える明瞭な前進であった。(A・W・トーザー 日々、聖霊に満たされてP184)」
つまり、父の家に向かう道は来た道を戻るというような単なる「戻り道」ではないということだ。また、非生産的な「情けない退却の道」でもない。実際の道こそは来た道であったかもしれないが、弟息子が父の家に向かう道は、これまで彼の人生の中には無かった「自分から父を求める」という新しい道を「行く」旅路なのだ。
私たちが歩む人生の道の風景は、現実風景と霊的風景は決して同じではない。情けない出戻りのように見える道は、今までにない形で父なる神に出会うための新しい道なのだ。私達はそれを悔改めとも呼ぶ。父へと向きを変える道:悔改めは、単なる人生のやり直しではなく、間違ってきた道を戻りつつも、今まで以上に父に近づていく新しい信仰の旅路であり、今まで以上に「上へ」と上っていく道なのだ。
ちなみに、弟息子が父から離れて遠い国へ上った道は、人生が登っていくような展望と高揚感があっただろうが、霊的な現実においては滅びへと下っていく道であったことも心に留めたい。
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