マタイ1:19夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
ヨセフはキリストの父親として用いられた人ですが、福音書には彼の言葉は一言も記されていません。聖書は彼を沈黙の人として証し、彼の姿を通して「沈黙の信仰」の大切さを私たちに教えています。
まずヨセフの沈黙について書かれているのは、許嫁のマリアが妊娠したことを聞かされたときでした。
当時、婚約者が婚前に妊娠したならば主に二つの可能性が考えられたと言われています。一つは不貞。もう一つはローマ兵などの抵抗できない人物に凌辱されたことです。どちらの可能性にしろヨセフにとっては、怒り、疑り、悲しみなどの激情の波が押し寄せる最悪の出来事でした。
しかし、ヨセフはそんな激情の嵐に身をゆだねることなく、マリアを「内密」に去らせることを決めました。彼は騒ぎ立てることではなく沈黙することを選んだのです。
最悪に直面したとき、まず沈黙を選択することは重要なことです。ヨセフの姿から二つのことを教えられたいと思います。
一つ目に、沈黙は私たちに正しいことする力を与えてくれます。
ヨセフは「マリアをさらし者」にさせないために内密に離縁することを選んだとありますが、これは何よりもまずマリアの命を守るための選択でした。当時、律法では姦淫の罪は石打ちよって罰せられました。そして、それは死を意味することでした。
ヨセフは、不透明な事態、あらゆる不確定要素がある中で、自分の感情に任せて騒ぎ立て,
マリアが不貞による石打に処されることを良しとはしなかったのです。
これは最悪の事態が、さらなる最悪へ広がっていくことを防いだ最善の判断と言えます。
聖書はヨセフが「正しい人」であったと記していますが、彼の正しさは「最悪の中で沈黙を選択する生き方、資質」と深くつながっていると思います。
「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。箴言16:32」とありますが、ヨセフも小さい頃よりこのような聖書のみ言葉に親しんでいたことでしょう。
最悪の中で激情をコントロールするためにまず沈黙することは、与えられた人生を賢く生きるための聖書の知恵なのです。
二つ目に、沈黙は荒立つ感情の波の中に祈りを生み出していきます。
信仰における沈黙とは最悪の中で神様と語り合う姿勢のことを意味します。ヨセフは最悪の中で沈黙すること通して主との交わりの中に入っていきました。
礼拝の前に静まる文化を持つ教会も少なくないですが、様々な日常のあらゆる音や声が響く中で、私たちに語りけて下さる主の声に耳を傾けるためには沈黙の時が必要です。
また、イザヤは国難に直面した王に対して「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。イザヤ30:15」と呼びかけましたが、最悪の中で私たちを「救い」に導くのは静まりの中から生まれる主との交わりです。まず沈黙を持って祈るとき私たちは神様の救いに導かれるのです。
私達は最悪の中に置かれたときに、嘆いたり、誰かを罵倒したりと、感情を吐き出したい思いに駆られますが、その理由の一つは私たちは痛みや憤りを誰かに理解されたいと感じるからです。
この感情の欲求は当然のことであり間違ったことではないのですが、そのような思いに捕らわれるとき私たちはのあることを見落としがちになっていると感じます。
それは最悪の状況の中で誰にとっても「最も必要なこと」は、感情を理解されることではなく、「まず最悪の状況から救い出されること」です。
自分の痛みが理解されることも重要ですが、それは後でも十分に間に合うことなのです。最悪の状況では、まず救いされることが最重要なのです。それは誰にとっても当然のことなのですが、激情の波の中では感情が先走り、その当り前のことを見失うことは多いと感じます。
だからこそ、激情が押し寄せる時に、「救い」は静まりからもたらされる主のと交わりの中にあることを思い出し、沈黙を選んでいくことが大切です。
ヨセフは怒りや、悲しみの激情の中で沈黙を選びました。そして、祈りを通して思いめぐらす中で自分の思いを遥かに超えた神様の答えを聴いていきます。
「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。』マタイ1:20」
ヨセフのように沈黙を選ぶとき「主との交わり」に導かれていくのです。そして、語られた主の御声はヨセフを最悪の状況から救い出しただけでななく、人の理解を超えた神の御計画の中に導きました。
沈黙の信仰は状況からの救いだけではなく、人知を超えた素晴らしい神様の御計画に私たちを導くのです。私たちも最悪の中で静まって祈る者でありたいと思います。
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