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渇きに気づく


ヨハネ7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

人は命を維持する水分を失うと体に様々な症状を引き起こします。立ちくらみ、筋肉のこむら返り、体に力が入らない、ぐったりする、呼びかけへの反応がおかしい、けいれん、歩行困難、体が熱い‥など、人体の渇きの症状は喉の渇きだけではなく様々な形で表出するものです。心の渇きも同じです。


臨床心理学者の東畑開人さんが紹介している「トイレ侍とウンコ男」という臨床エピソードがあります。あるとき東畑さんのもとに半年前に母親を病気で亡くした4歳の男の子がカウンセリングに連れて来られました。


男の子は母親の死後に幼稚園で他の子供たちに暴力を振るうようなったので父親に連れて来られたのですが、彼は初対面の東畑さんに会うなり手元にあったおもちゃの剣でポカスカと切りかかり、「オレはトイレ侍だぞ!ウンコ男め!やっつけてやる!」と笑いながら叫んだそうです。


東畑さんはけっこう強めに叩かれる痛みの中で男の子の心の中に起こっていることをこう分析しています。

「母親が亡くなったのはちょうど彼がトイレットトレーニングをしていた時期だった。自分がうまくトイレをできなかったせいで母が病気になってしまった。突飛な考えではあるが幼い心はそう感じていた。だからウンコ男とはじつは自分のことで、自分を攻撃するように私を攻撃していた。幼稚園で暴力を振るっていたのもそういうことだったのだろう。(東畑開人「心はどこへいった?」より)」

トイレ侍の手の付けられない暴力性の根源には、母を失った喪失感や、トイレで母の期待に応えられなかった罪悪感など、彼の満たされない心の渇きがありました。そして、その渇きは何かを罰する「暴力」という思わぬ形になって現れ、彼を幼稚園という社会から孤立させていたのでした。

この後、東畑さんは何か月もトイレ侍に切られ続けられたそうです。「叩かれる痛みと共に、トイレ侍の痛みも伝わってきて悲しかった。」と綴っておられました。忍耐の数か月でしたが、幸いなことに心の深い渇きを受け止めてもらった男の子は徐々に落ち着きを取り戻し、いつもの生活に戻ることが出来たそうです。

心の渇きとは思わぬ形で表出するものです。しかし、その複雑さゆえに周りの人たちはその人の表向きの問題に目を奪われ、内側の渇きに気づかないことがあります。そして対処療法に走り回り、根本治療に行きつかないことがあります。もちろん、個々の問題は複雑で難しいかもしれませんが、それでもまず大切なことは問題の後ろにある渇きを見ようとすることです。

イエス様は罪に生きている人々を単なる罪人と見られず、「渇いている人」として見て下さいました。イエス様は人の罪の問題だけを見るのではなく、神様との関係を失って、満たしきれない渇きを世のもので満たそうと呻いている私たちの「根源的な渇き」を見つめて下さったのです。


そして、断罪ではなく、また罪を止めるように迫るだけの簡易的な解決ではなく、十字架の赦しと復活の命に表された「神様の愛」という根源的な満たしをもって私達を助けて下さいました。

私達もイエス様に倣う者でありたいと思います。隣人の問題だけ見つめて断罪するのではなく、その心の渇きに気づき、共に痛むことが出来る者でありたいと思います。

「人々の反発のある所に、私たちは渇きを見ます。無関心のあるところには切なる思いを、孤立のあるところには探し求める心を見ます。」あるラビの言葉(フィリップ・ヤンシー 隠された恵み p290)

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