神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。
ピリピ2:13-14
心配性と呼ばれる人達がいますが、心理学者アーニー・J・ゼリンスキーは心配についてこのような研究結果を発表しています。
『心配の40%は「決して起こらないこと」、30%は「すでに起こってしまったこと」、22%は「取るに足らないこと」で、4%は「私達にはどうにも出来ないこと」だ。そして、残りの4%のみが「私達が変えることのできること」である。』
つまり、私達の心配ごとの96%はどんなに心配しても現実に起きないことであるか、起きたとしてもどうにも変えられないことなので、どんなに心配しても意味がないのだそうです。
もちろん物事を決断するときなどには注意深さは必要ですが、心配はさほど私達の人生に必要ありません。むしろ行き過ぎた心配は私達の心から勇気を奪い、本来は考えないでよいことで心を一杯にし疲労をもたらします。
なによりイエス様は心配についてこう言われています。
「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。・・・心配するのはやめなさい。マタイ6章」
また、心配と疑いは双子のようです。
私達が心配に留まると心に神様への疑い・不信感も芽生えます。そして、サウルが自分の王座を心配した先に、ダビデを殺そうとするという実際の罪が産まれたように、過剰な心配は罪の温床ともなる心理状態でもあるのです。
そのように心配が私たちに罪さえも犯させる心であることを想うと、「心配するのをやめなさい」という主の言葉の重たさと深さを改めて感じます。
みことばは私達に、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」と語ります。
心配を覚える時に私たちは2つのことを思い出す必要があります。
1、神様は私達の人生に計画を持って働いておられる。
2、だから、信仰をもって、つぶやかずに、疑わずに目の前のことに取り組む。
あなたが願っていることや、取り組んでいることは御心と無関係ではありません。罪以外のことならば、そこには神様が植えられた志と計画が働いています。しばしば嵐に遭うこともありますが、それも試練と呼ばれる神の計画です。
大切なのは“現在”立たされている場所で、心配ではなく、信頼に立つことです。つぶやかずに、疑わずに、今日を精一杯生きること、それが信仰の歩みです。
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