マタイ20:13(新共同訳)「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。」
収穫期にブドウ園の主人が日雇いの労務者を雇いました。彼は朝昼夕と何回かに分け人を集め、日が暮れ労働が終わると彼らと清算を行いました。しかし、朝から働いた者と夕方から働いた者に同じ1デナリ(当時の平均的な日当)が支払われました。
当然、朝から働いた者達は主人に文句をつけます。「なぜ報酬が同額なのか?不公平だ。」主人は答えます。「分かっている。しかし、私としては最後の人にも同じようにしてあげたいのです。」…。
イエス様のたとえ話のですが、この話を聞いて腑に落ちない人は多いと思います。なぜ朝の人と夕の人と報酬が同じなのか?賃金の公平さを考えるとこの物語は納得できません。
しかし、この物語は公平さや正しさを軽視しているのではなく、正しさを超えたところに焦点があります。ここには義:正しさを土台としつつも、義が打ち破られた世界が示されています。それは父なる神の愛の世界です。
この世界ではどれだけ働いたかが報酬の額を決定しません。父なる神の愛が報酬の額を決定します。多く働いた者も、わずかしか働けなかった者も、同じ報酬を愛によって受けます。
90点の信仰者も、10点にも届かないような者も、おなじ神の子として愛され十分な恵みで養われる世界です。
ここで大事なのは義:正しさがちゃんと保たれていることです。朝の者に約束された報酬は一日分の労働対価に十分な1デナリでした。もし、夕方の者のために朝の者の支払いが減ったなら不正ですが、全ての者に十分な労働対価が支払われました。損をしたのは労務者ではなく主人です。
ここに不正はなく義の破たんはありません。むしろ、主人の犠牲の愛によって義の枠組みが打ち破られた世界が開かれています。このたとえ話にはまさに十字架の贖いの恵みが描かれているのです。
さらにこの物語は「神との友情」の世界へと私達を導こうとします。朝の者達が主人に訴えますが、主人は朝から働いた労働者たちに「友よ」と呼びかけています。つまり、主人は朝から共に働いてきた労働者を、雇人ではなく「友」として扱っているのです。
ここに関係の飛躍があります。本来、両者の関係は、農園経営者と仕事にあぶれたその日暮らしの労働者です。「雇用関係、主従関係、与える側と与えられる側」の関係です。
しかし、主人は「私としては最後の人にも同じようにしてやりたいのです。」と、自分の心の内を全てを打ち明け、その思いを労働者と共有することを求めます。
ここではもはや雇用関係、主従関係が中心をなしていません。労働者たちを友と呼び自分の心を相手と共に分かち合いたいと願う、労働者たちに向けられた主人の「友愛」が中心にあります。
私たちは神様に「御子イエス・キリストのいのち」というありえない代価をもって救われました。どんなに譲歩しても「奴隷と主人」が私たちと神にふさわしい関係です。しかし、愛の神はそんな私たちと友情関係を持ちたいと願われます。
友情関係とは、金銭、権威、主従、あらゆる縛りから解放された人格的に同等の関係です。本来、神という相手と罪深い私達に絶対にふさわしくない関係であり、ありえない関係です。しかし、神が私達との関係においては「友でありたい」と願われるのです。愚かで力の無い私たちと語り合い、理解し合い、命令ではなく情熱を共有して共に働きたいと願われるのです。
神との友情は本来ならありえない「恵みの関係」です。
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