Ⅰテサロニケ5:16-18 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
健康のために今年の6月ころからジムに通うようなりました。週に2・3回ちょっと走ってウェイトトレーニングをします。じつは私はジムに通うのは初めてではなく、20代のころ友達と一緒に筋トレにはまっていた時期がありました。そのころは若さもあり100キロ以上のウェイトを持ち上げることができました。
今回、15年ぶりに筋トレを始めるとき、「15年前と同じように…」とはもちろん思ってはいないですが、「それなりにいけるのではないかな?」と若干自分に期待しているところがありました。しかし、いざウィエイトを持ち上げみるとその幻想は一瞬で打ち砕かれました。
昔はウォーミングアップで持ち上げていた重さのウェイトを持ち上げただけで、自分の腕が壊れる寸前のように軋み、足は生まれたての小鹿のように震え、額から冷汗が吹き出しました。
周りの人の「おじさん、無理し過ぎじゃないか?」という心配そうな視線を背に受けつつ、私はジムの片隅でメタボのお腹を見つめながら自分の体力が初心者以下に戻っていることを痛感させられました。
「継続しなければ、維持は出来ない。」これはすべての人に当てはまることです。どんな優れた運動選手も継続したトレーニングを欠かせば、パフォーマンスは落ちていきます。しかし、継続し続ければ高いレベルを維持できます。また、トレーニングを継続することは、さらなる成長にもつながります。
信仰においても同じことが言えます。ケン・シゲマツ師はこう語ります。「もしあなたがジムに行って、ただ一度だけウェイトトレーニングをしたとしても、強くなることはありません。筋肉痛になるだけです。一度や二度ジョギングしても、耐久力を養うことは出来ません。ただ疲れるだけです。しかし、長期にわたってエクササイズを続けるなら、あなたの体は変わります。神に感謝を捧げることにも、同様のことが言えます。 (魂のサバイバルガイド/ケン・シゲマツ)」
私たちキリスト者は基本的にいつも神様にあって喜ぶ信仰でいたいと願っています。しかし、時々訪れる喜ばしい時にだけ神様に感謝や賛美を捧げても「神様にあって喜ぶ信仰」は維持できません。パウロが「いつも喜んでいなさい。」と勧めるように、普段から神様に対する喜びや感謝を意識的に継続させて維持する必要があります。
そうでなければ、突然に訪れる人生の谷間や暗闇の時に、「神様ご自身を喜びとし、良いことでも悪いことでも起きていることに感謝し、神様が全てのことを益として下さることを期待していく信仰」を持とうとしてもなかなか持てないものなのです。それは言い換えれば、必要な時に信仰を用いられない状態であり、もったいない信仰の歩みと言えます。
また、ケン師が「長期にわたってエクササイズを続けるなら、あなたの体は変わります。」と語るように、信仰によって喜びや感謝を意識的に継続させることによって、私達の信仰の体質自体が変えられて行きます。
例えば、ランニングを始めたて頃は走ることを苦痛と感じますが、継続すると走ること自体が喜びとなります。そして、さらに続ければ「走らないと気持ち悪い」という状態にまでになります。
同じように「いつも喜んでいなさい。」は、最初はちょっと大変なことと感じるかもしれません。しかし、続けて喜びの姿勢を維持していると、喜んでいることや感謝していること自体が喜びとなり、それが私たちの基本の信仰体質になってきます。
いつも喜んでいる人を見ると純粋に「あの人のようなでいたいな。」と思わされます。でも「いつも喜ぶ信仰」は一夜にしては得れませんし、ちょっと真似でも身につかないものです。継続と維持がどうしても必要なのです。
今日からもう一度、神様にあっていつも喜ぶことを始めてみませんか?ちょっと時間が掛かりますが、継続して「喜ぶ」ことを大切にするなら、私たちは必ず「いつも喜ぶ信仰の人へ」造り変えられていきます。
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