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練達した人

ローマ16:10 キリストにあって練達したアペレによろしく。

パウロがローマ教会の人々に挨拶を書き送っている中に「キリストにあって練達したアペレ」という人の名が記されている。練達とは原語ではドキメーで「真正(本物)であることの証明、試験済み」という意味で辞書に記されている。 偽物ではなく本物のキリスト者と評されるアペレ。名が通っているだけではなく中身のある人であるということだ。会って話すとこの人は本物だと唸らせられる人である。私は練達した信仰者アペレに惹かれる。いつかそのような人になりたい。

 アペレはどのようにして練達した本物のクリスチャンになったのだろうか。アペレの物語は書かれてないが、同じローマ書5:3-5では練達についてこう書かれている。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性(品性は口語訳で練達と訳される)を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」

 このみ言葉によると、練達したキリスト者は艱難(試練)の中から生まれて来る。艱難を忍耐強く潜り抜ける中で信仰が試され、品性:練達が磨かれていくのだ。

しかし、ある牧師が試練と練達ついてとても重要な視点を語っている。

「・・・忍耐が、その人物の確かさを育てていく、ということです。これは他の宗教や処世訓にあるような意味での人物の確かさではなく、神さまの愛が注がれていることによるものです。苦難が自動的に人を練達に育てるのではありません。苦難がかえってその人物をかたくなにし、ねじ曲げてしまうということもあるのです。忍耐が忍耐ではなく、単なる我慢であるなら無理もないことでしょう。苦難の中に神さまの愛が注がれていることを信じる者にこそ、忍耐が可能となり、練達が、そして希望が生れるのです。」しおからとお茶づけ ブログ

艱難が健全に練達に向かっていくためには、忍耐の中に神の愛が注がれていなければならない。言い方を変えれば、どのような状態でも常に注がれ続けている神の愛を信仰によって受け取り続けていくことが大切であるということだ。艱難の中で神の愛を信じていく。これこそ練達の人の辿る道だ。


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