top of page

自発的な愛

更新日:2022年10月26日


ピレモン1:12‐14 オネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。…あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。


老年のパウロのもとに元奴隷のオネシモという青年がいました。オネシモはピレモンという主人の家の奴隷だったのですが逃亡した過去がありました。当時、奴隷の逃亡は重罪でした。大変なことをしでかしたオネシモは、ローマでパウロに出会い保護され、育てられたようです。


オネシモの主人のピレモンは熱心なキリスト者であり、家の教会も開いている人でした。そして、パウロとも親交があったので、パウロはオネシモとピレモンとの仲を取り持ちながら「オネシモを送り返します。」という趣旨の手紙を書きます。それが「ピレモンへの手紙」です。


パウロは手紙での中でピレモンに、オネシモに対して自発的に親切にしてくれるようにお願いします。つまり、「わたし(パウロ)のお願いだからオネシモに良くするのではなく、あなたの自発的な親切として良くしてあげて下さい。」と伝えているのです。


「ピレモンへの手紙」はパウロとピレモンの関係を透かし絵にイエス様と私たちの関係を教えていますが、この手紙から私たちは隣人に親切にしたり、赦したり、愛することを、命令ではなく自発的な行為として行っていくことを、神様に期待されていることに気づかされます。


私達キリスト者はときとして愛を命令としてだけで捉えがちです。「主は『敵を愛しなさい』と命じられたので、嫌いな人、苦手な人を愛さなくてはならない。」そのように、「なくてはならない」という言葉とセットで愛や親切に向き合いがちです。ひょっとすると真面目な人ほどそのようになりやすい傾向があるかもしれません。


しかし、神様は「なくてはならない」という愛ではなく、私たちの心から湧き出る自発的な愛を期待されています。


なぜなら脅されて結婚するような結婚に愛はないように、強制で生み出される愛は虚飾の愛であり本物ではないからです。愛は双方が自発的に愛することによって本物になっていきます。


私たちは人に親切にするとき、どんな心で親切を考えているでしょうか?どんな気持ちで隣人への愛を実践しようとしているでしょうか?「みことばの命令なのでしなくてはならない」と思うなら、ちょっと休憩して神様の愛の心をもう一度見つめなおすことをお勧めします。



自発的な愛が語られると「いやいや、嫌いな人を自発的なんて愛するなんて無理じゃない?」という声も聴こえてきます。当然です。「嫌いな人や苦手な人を自発的に愛する」なんてことを聞けば普通はそう思うものです。


そう思うものなのですが、、、嫌いな相手を自発的に愛することは不可能でありません。なぜなら神様が私たちの内側に相手を愛する心が生まれるように働きかけてくれるからです。


神様の愛に気づかされ、愛せない人を愛せるようになっていく、これこそ私達キリスト者の信じていることであり、希望であり、神様の恵みなのです。ですから、私たちは自力で愛そうとしなくてもいいのです。「愛せますように…。」と神様に願うことから始めればいいのです。



また、神様にあってでも誰かを自発的に愛していくには時間がかかることも心に留めておくことも大切だと思います。自発的な愛は多くの場合瞬間的に与えられるのではなく、種から芽が出て成長していくように、時間をかけて私たちの内側で育てられていきます。


ピレモンがオネシモを再度受け入れる準備ができるまで、何年もパウロはオネシモを引き受け丁寧に二人の間を取り持ちました。


同じように神様は私たちの内側に自発的な愛が芽生えるまで、働きづつけて下さり、私と相手との関係を守って下さいます。


神様がそこまで私たちのために働いて下さるのですから、私たちはきっと、いや必ず、敵でさえ自発的に愛せる者になっていきます。 雅歌2:7 揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。

閲覧数:41回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page