ヨハネ3:1-2さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。
「大統領の執事の涙」という映画あります。黒人男性セシル・ゲインズが1950年代の人種差別が色濃い時代から86年まで、ホワイトハウスで執事として働く物語です。
映画の中でセシルは黒人に対する差別と暴力が当たり前の時代に、誠実に働いて仕えるという姿勢を持って自分たちの価値を示し続けます。そして、セシルはいつしか歴代の大統領に「友人」と呼ばれるようになり、大統領の晩餐に招かれるまでの人物となります。
一人の黒人男性が人種差別と闘いながら誠実な人生を貫く物語に心打たれますが、映画は後半で仕事の成功の影に隠されていたセシルの虚しさを描き出します。
世間的には執事としての成功を収め、定年を超えてもホワイトハウスに必要とされるセシルでしたが、ある日ホワイトハウスの階段の下で靴を磨きながらセシルは心の中でつぶやきます。「あんなに好きだった仕事も何かも空しくなった…。」
彼は仕事では成功していきましたが、私生活では政治的信条や人生観の違いで息子との深い確執を抱えていました。そして、長い間息子とは会っておらず、寂しい思いを内側に抱えていました。
息子との関係を失った悲しみ。息子と心を通わせて生きて来られなかった寂しさ。セシルの心にそれは何物でも満たすことの出来ない大きな空しさとなって彼を襲ったのでした。
ついに彼はある日大統領に辞職を願います。今まで培ってきたものを捨て、息子を取り戻す旅に出かけることを決断したのです。そして、息子のもとを訪ね、失っていた関係を取り戻していきました。
十数年後、老年になったセシルは息子や孫たちに囲まれて、幸せに満たされた中で人生を閉じて行きました。
聖書の中にもセシルのような空しさを抱えた人が登場します。ニコデモです。彼は優れた律法の教師であり人から尊敬される指導者でした。誠実に生き、成功を収め、良いもので自分の人生を満たしていましたが、ある年齢(50-60歳だと考えられています。)になると虚しさを覚え、その答えを求めてイエス様のもとを訪問しました。
ニコデモはイエス様との会話の中で「永遠のいのち、神の国」のことについて質問します。つまり彼は、聖書の専門家として学識を深め、人に教え、それで成功してきたのですが、その反面、知識があるだけで彼自身は自分が教えている「永遠のいのち、神の国」を実感として味わえないで歩んできたのでした。 またそれは言い換えれば、信仰者として肝心要の神様との生きた関係を育んで来れなったということでもありました。 人生の中における神様と生きた関係の欠如、神の国のリアリィーの欠如は、ある程度の年になると、ニコデモにとって大きな虚しさのとなって彼を襲いました。
そして、彼もまた自分の教師としての身分やプライドなどを捨てて、虚しさを埋めるためにイエス様のもとに向かって出かけてきたわけです。彼はイエス様との問答を通して、後に本当の神様との出会いを体験していきました。
セシルとニコデモの物語を見るとき、どんなに正しくて良い物事に取り組んでも、価値のあるあらゆるモノを手に入れたとしても、最も大切な人との関係を失うなら、または、失ったままなら、私たちの人生は決して満たされていないということ教えられます。
満足のいく仕事をすること、自分の置かれた場所で成功すること、誰かの役に立つ人になること、家族を養うこと、自身が成長すること、なにかを成し遂げること‥など、それらは神様に与えられた人生をちゃんと生きるためには目指すべきことですし、それぞれに手に入れ行くべきことだと私は信じます。しかし、最も大切な神様と関係を失ったままだと人生は虚しいのです。
あなたは人生途中で、あるいは成功の中で、あるいは登り切った坂の上で、虚しさを感じていませんか?もし、そうならば、ニコデモがイエス様のもとを訪れたように、私たちもイエス様のもとに向かって出発するべきです。
マタイ16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
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