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誰に愛されているのか?


ルカ3:22聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

最近、格闘技ブームが再燃しています。私も格闘技を見るのが昔から好きなのですが、私が20代の頃(2000年代~)にはPRIDEという総合格闘技の大会が人気になり、毎年のように大晦日には紅白の裏番組としてビックマッチが組まれました。

当時のスター選手に“山本KID徳郁”という選手がいました。彼はレスリングから総合格闘技に転向してくると、小さい体にもかかわらず圧倒的な強さで相手を倒し、連勝を重ねて一気にスターダムへと駆け上がりました。とにかく強気な性格でビックマウスを放ち、試合でも私生活でも話題になる花のある選手だったのですが、残念なことに胃ガンのため2018年41歳の若さで他界しました。

若い時のKID選手はインタビューでは不敵な笑みを浮かべながら自分のことを「オレは格闘技の神様に愛された神の子。だから“キッド”(子供)なの。」と語りました。パフォーマンスでもあったのでしょうが、その言葉は本当に自分が格闘技の神に愛されていることを信じているように聞こえました。

レスリングの名家「山本家」に長男として生まれ、オリンピアでもあった父郁榮氏の英才教育の中で育ってきた彼のバックボーンを考えると、格闘技の神であるような父に愛されてきたことがKID選手の内側に「オレは神の子」と言い切るような揺るぐことのない格闘技に対する自信と存在価値を与えていたのだと思います。

詩人ゲーテが残した言葉の中にこのような一節があります。「あの人が私を愛してから、自分が自分にとって、どれほど価値あるものになったことだろう。 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」

恋愛的な甘美な言葉に聞こえますが、ゲーテの言葉は「自分が誰に愛されているか?」ということが「自身の存在の価値観」に大きな影響を与えることを鋭く見抜いています。

人は社会的な存在ですので多かれ少なかれ「誰に愛されているか?」によって自分の存在の価値を捉えるものです。価値ある人に愛されるなら自分にも価値があると思います。そして、「自分を愛してくれる他者の愛」を根拠に自身の存在に自信を持ちます。例えば、もしピカソに「あなたの絵が好きだ。」と言われれば、誰でも自分には絵の才能があると自信を持つでしょう。そういうことです。

反対に家庭環境の問題で家族から健全に愛を受けられなかった人や、明らかな問題を抱える親に育てられた人は、健全な自己愛と自信を持つことが困難です。健全な愛情を受けられなかった人が社会を恐れて引きこもったり、反対に自暴自棄で破滅的な行動をとったりするケースは多いのですが、その背後には自己の存在を軽視する心があります。「わたしなんてどうせ…。」とか、「あの親の子なら私もダメだ。」といったような心です。

「私は誰に愛されているのか?」それは私達が自分の存在の価値を見出すためにはとても大切なことなのであり、自分の人生を価値を見出し、自信を持ってしっかり歩むことと深くつながっています。

福音書に見えるイエス様の姿は自信に満ちておられます。人としてのイエス様は30歳になったばかりの男性でしたが、あらゆる年齢・身分・国の人々を前にしても物怖じせず堂々と自分の考えを話されました。大勢の群衆に称賛されたり、時には非難されたりしましたが、周りの言葉に一喜一憂されたりする姿は微塵も見えません。いつも堂々と自分の歩むべき道を歩んでおられました。

イエス様の内面の揺るぎない強さ、自信はどこから来ていたのでしょうか?福音書はこぞってイエス様が公生涯を始められる時に、天から「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」と父なる神様の御声が語られたことを記しています。そして、イエス様は公生涯をこの父なる神様の愛の言葉の響きの中で生きられたことが福音書の中から分かります。

「わたしは父なる神に愛されている。」この事実こそがイエス様に健全な自己愛と健全な自信を与える源泉となっていました。

聖書は私達一人ひとりもイエス様と全く同じように「父なる神様に愛されている」と語ります。また、私たちに対する父なる神様の愛は、言葉だけのものではなく御子イエス様を私たちの身代わりに十字架に架けるという行動を伴った愛であり、証明された愛でもあります。つまり、誰かがどう言おうとも、あなたは紛れもなく「天地を造られた偉大な神に愛された神の子」なのです。

今日、あなたの耳に「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」という御言葉が聴こえているでしょうか?

私は自分の弱さばかりを見つめて、時々父の御声が聴こえなくなり、自分の価値を見失う時があります。

ですので、KID選手のようでありたいと本当にそう思う時があります。父の偉大さを誇り、自分に注がれる父の愛を純粋に受け止め、「オレ、神の子だから!」真っすぐな目でそう言ってしまえるような突き抜けた信仰でありたいと思わされるのです。

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