Ⅰコリント4:5 主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。
1925年の全米オープンで起きた出来事です。あるゴルファーがラフにあったボールを打とうと構えたところ、何かの拍子でボールをほんの少し動かしてしまったことに気がつきました。もちろんボールに触れてしまうと一打にカウントされてしまうのですが、そのとき誰一人見ていませんでした。魔が差す瞬間とは、このような瞬間のことをいうのでしょう。
しかし、このゴルファーは正直に1打罰を申告しました。そして、その結果彼は名誉ある大会での優勝をふいにしてしまいました。
試合後、彼の正直な申告が明らかになり報道陣が集まり賞賛しましたが、彼は「そんなのは銀行強盗をしなかったからとほめられているようなもんだ」と答えました。ゴルファーの名前はボビー・ジョーンズ選手。「球聖」と呼ばれる伝説のゴルファーです。
ジョーンズ選手は誰一人見ていない場所で、正直であること、正しくあることを選びました。この選択から彼が競技相手に勝ことより、ゴルフで勝つことを大切にしていたことや、目先の名誉と賞金ではなくゴルファーとして本物であることに価値があると信じていたことが伺えます。そのように信念を持ってゴルフに取り組んだ彼が後に球聖と呼ばれる結果を残したのはうなづける話です。
誰も見ていない場所は「自由な場所」であると同時に「どんな人間か」を問われる場所でもあります。その人が本当は何を信じているのか?何に価値を置いているのか?何を基準に、何を選ぶのか?本当の自分があらわにされる場所です。
聖書は私達の人生の行いは良い良い悪いに問わず、報いは父なる神から来ると語ります。また、神の前においては隠される事はなく全てが明らかになります。私達は誰もがこの方の御前で生きているのです。
私達はこの事実を信じているでしょうか?誰も見えない所でどう生きているかは、その人の信仰と人生の価値観に直結しています。人生の報いが何処から、誰から、来ると信じているのか?誰に賞賛されることに真の価値があることと信じて生きているのか?それが明らかにされます。人の目に隠れた場所は「信仰の場所」でもあるのです。
また、このような聖書のメッセージを聞くと神様を監視者のように感じて恐れる人がいますが、それは間違いです。
イエス様はマタイ6章において積極的に隠れた場所で良い行いを生きるように勧めます。その理由は「隠れた所で見ておられる父から報いを受けるため」と語られますが、リビングバイブルでは、このイエス様のメッセージを「隠れたことはどんな小さなことでもご存じの天の父から、必ずごほうびがいただけます。マタイ6:4」という言葉で訳しています。
つまり、私たちが隠れた場所で善い行いをするとき、その行いは誰も見ていないのではなくて、報いを下さる父なる神が観て下さっている、と教えていおられるのです。
「隠れた所で見ておられる父」は監視者でなく激励者です。「誰も見ていなくても、わたしが見ているから大丈夫だよ!あなたの行いは無駄ではない!」と、励まして下さる神なのです。
「誰も見ていないが、主が私を見ていて下さる。」そのように私達が信仰を持って生きるとき、誰が見てない場所で「あなたの小さな良い業」を決して見落とさず、喜び、報いを用意される父なる神に出会います。
人の目に見えない場所は、父なる神に出会い、報いを確信する信仰の場なのです。
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